2015年11月12日木曜日

間違い続出? 日経ビジネス 田村賢司編集委員の記事(3)

日経ビジネス11月9日号「スペシャルリポート 戦後70年の日本経済-最終回- 物価下落はなぜ止まらないのか 『失われた20年』、4つの要因 デフレ脱却は民間活力から」という記事について、筆者である田村賢司主任編集委員の分析に納得できなかった部分を見ていく。記事ではデフレに陥った4つの原因を挙げており、その1つが「遅れ続けた日銀の金融政策」だ。しかし、遅れ続けているとは思えなかった。記事では以下のように分析している。
英彦山神宮(福岡県添田町) ※写真と本文は無関係です

【日経ビジネスの記事】

「日銀は何もしていない」

金融危機のさなか、98年秋に日銀が開いた金融政策の研究会で財務省のある官僚が日銀の出席者たちを皮肉った。財務省は財政再建を進める立場だが、首相の小渕恵三が危機を乗り切るために20兆円を超える経済対策を策定するのを受け入れたとして、それまで、ほとんど手を打っていなかった日銀を当てこすったのだ。

当時、日銀の職員でこの会合に出席していた東大の渡辺は、「デフレと言ってもゆっくり進んだせいで、深刻な問題という認識が日銀にはほとんどなかった」と振り返る。

翌年2月になってようやくゼロ金利政策を取ったが脱デフレには結び付かなかった。それを見た米マサチューセッツ工科大学の教授(当時)、ポール・クルーグマンが、「4~5%のインフレを狙うインフレターゲット政策に踏み込むべき」と提言したものの無視している。2001年3月になって金融緩和政策に切り替えたが、規模は小さく、2006年3月にはそれも終了してしまった。この時、消費者物価はわずかな上昇に転じていたものの、デフレ脱却を確認したとは言い難い状態で実施している。終始、デフレに対する認識が薄く、対策は遅れ続けた。

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日銀は何もしていない」というコメントからは「日銀はデフレ対策を何もしていない」との印象を受ける。記事に出てくる「財務省のある官僚」の発言の真意は分からないが、常識的に考えれば「日銀は景気浮揚のための策を出していない」と言っているだけではないか。小渕政権下での20兆円超の経済対策もデフレ対策を前面には打ち出していないはずだ。記事にも「(金融)危機を乗り切るために」と書いてある。

日銀は91年には金融緩和に転じ、90年代半ばには超低金利と呼ばれる水準まで利下げをしている。消費者物価指数を基準にすると、物価の下落基調が定着するのは99年秋以降だ。その前にデフレ傾向が出ていたとしても、それには超低金利政策で対応している。もちろん、「わずかでもデフレ的な傾向が出たら一気にゼロ金利を採用した上で、4~5%のインフレ目標を設定して、国債でも株でも狂ったように買うべきだ」との立場であれば不十分と感じるだろう。しかし、日銀に関して「それまで、ほとんど手を打っていなかった」「対策は遅れ続けた」と断定する材料は乏しい。

記事では「2001年3月になって金融緩和政策に切り替えた」と書いていて、これは量的緩和策の導入を指している。おそらく田村編集委員は「量的緩和を実施して初めて金融緩和になる」と認識しているのだろう。そうでなければ、記事中の表では「2001年3月 日銀、量的緩和政策を実施」となっているのに、本文で「金融緩和政策に切り替えた」とは書かないはずだ。

日経ビジネスの編集委員がそこまで認識不足だとは信じられないかもしれない。しかし田村編集委員は今回の記事で「日本経済にまとわりつくデフレスパイラル」とも書いている。つまり日本経済の現状を「デフレスパイラル」と捉えている。ここからも「この筆者は根本的に分かっていない」との前提を置くのが適当だと分かる。

やや話がそれたが、田村編集委員は「90年代後半にはデフレの兆候が出ていたのに、日銀が金融緩和政策に切り替えたのは2001年になってから。これはさすがに遅い」との認識なのだろう。しかし、実際は91年には金融緩和に転じ、90年代半ばには超低金利政策を採用している。正しく状況認識ができていたら、田村編集委員も「対策は遅れ続けた」とは書かなかったのではないか。


※記事の評価はD(問題あり)、田村賢司主任編集委員の評価もDとする。

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