2021年8月31日火曜日

MMT寄りの政治家・高市早苗氏が唱える「サナエノミクス」に注目

 MMT(現代貨幣理論)は異端視されキワモノ扱いされる傾向が強かった。MMT支持者としては忸怩たる思いがあったが、潮目が変わってきたのかもしれない。「高市早苗前総務大臣が意欲を語る ~ニューアベノミクスとも言える『サナエノミクス』が『日本経済強靭化計画』」という17日付のニッポン放送オンラインの記事を読んでそう感じた。自民党総裁選に出馬しそうな政治家までがMMTに基づいて政策提言をしていると取れる内容だったからだ。

夕暮れ時の工事現場

ニッポン放送『飯田浩司のOK! Cozy up!』での高市氏の発言を見ていこう。


【高市氏の発言】

残念ながら、プライマリーバランスを時限的に凍結するということにつながるのですけれども、やはり政策が軌道に乗るまでは、どうしても追加的な国債発行は避けられなくなってしまいます。イェール大学の浜田宏一名誉教授がわかりやすい表現をしていましたが、政府の財政収支を気遣うあまり、現在苦しむ人を助けず、子どもの教育投資を怠って、生産力のある人材資本を残さなくてもよいのかと。「目の前のことに拘って、いま救わなければいけない人が救われなくなる」と、このように表現しておられたのです。ただ、いま追加的な国債発行をしたとしても、日本国が破産するというわけではない。つまり私は国債発行というのは避けるべきものではなく、必要な経費の重要な財源として活用すべきものだと思っています。

特に日本の場合は、日本銀行に通貨発行権があります。自国通貨建ての国債発行ができますから、デフォルトの心配はない。要は債務不履行の心配はないのです


◎「債務不履行の心配はない」はその通り

インフレ率2%を達成するまでは、時限的にですが、プライマリーバランスは凍結する」と高市氏は言う。「インフレ率2%」にこだわる意味はないと思うが「財政収支を気遣うあまり、現在苦しむ人を助けず」に放置して良いのかという考え方は評価できる。

そして「自国通貨建ての国債発行ができますから、デフォルトの心配はない。要は債務不履行の心配はないのです」という見方はMMTと大きく重なる。

続きを見ていこう。


【高市氏の発言】

それから、いまは金利が低い。だからプライマリーバランスが赤字でも、名目金利を上回る名目成長率を達成して行けば、財政が破綻することはありません。財政はむしろ改善します。企業も、借金で投資を拡大して成長しています。国も成長につながる投資をすれば、将来の納税者にも恩恵が及ぶのです。こういう危機管理投資に必要な国債発行は躊躇すべきではないと考えています。


◎整合性の問題が…

この発言は問題がある。「自国通貨建ての国債発行ができますから、デフォルトの心配はない。要は債務不履行の心配はないのです」と見ているのであれば「名目金利を上回る名目成長率を達成」しようがしまいが財政破綻はあり得ない。この辺りは高市氏もまだ考えを整理できていないのだろう。

高市氏は一連の発言でMMTに直接言及している訳ではない。ただ「通貨発行権を持つ国で自国建て政府債務のデフォルトを心配する必要はない。インフレの高まりを抑えられている状況では、財政赤字を気にせず必要と思える支出をすべき」というMMTの基本的な考え方とかなり一致している。

MMT寄りの政治家として高市早苗氏と「サナエノミクス」に注目したい。


※今回取り上げた記事「高市早苗前総務大臣が意欲を語る ~ニューアベノミクスとも言える『サナエノミクス』が『日本経済強靭化計画』」https://news.1242.com/article/308889


※記事への評価は見送る

2021年8月30日月曜日

本当にワクチン接種は「広げる」べき? 日経 前村聡記者に考えてほしいこと

30日の日本経済新聞朝刊オピニオン面に社会保障エディターの前村聡記者が書いた「『7割の壁』と変異型に各国焦り」という解説記事では「ワクチン接種=推進すべき」との前提が引っかかった。全文を見た上で、前村記者に考えてほしいことを列挙してみる。

夕暮れ時の交差点

【日経の記事】

新型コロナウイルスのワクチン接種が先行した国では、接種比率が7割に近づくと頭打ちになる「壁」に直面している。感染力の強いデルタ型が流行し、焦りを強めた国や都市が接種率を引き上げるための対策に乗り出した。

飲食店の利用時などに接種証明書を提示することを義務化したフランスのような強い対応に日本は慎重だ。昨年12月の予防接種法改正の際、衆参両院の付帯決議に「接種していない者に対して不利益な取り扱いは決して許されない」と盛り込まれた。

1948年制定の予防接種法は戦禍からの復興を目指し、感染症を抑えるため天然痘ワクチン(種痘)などを義務接種として罰則を設けた。その後は感染症が激減する一方で副作用問題が注目され、76年に罰則がなくなり、94年には接種は努力義務に弱められた。

もっとも、付帯決議のころに1日数千人だった国内の新規感染者数は、足元では2万人を超える日が多い。接種率の上昇が鈍化するようになれば、踏み込んだ促進策が議論されそうだ。

自らの感染リスクを下げる「個人防衛」の接種もしたくない人に、集団免疫の獲得という「社会防衛」のための接種は遠い。自己決定権の尊重は成熟社会の証し。十分な情報と当事者参加の議論が「壁」を突破する一歩になる。


◇   ◇   ◇


(1)「鈍化」は確実では?

接種率の上昇が鈍化するようになれば、踏み込んだ促進策が議論されそうだ」と書いているが、「接種率の上昇が鈍化」するのは確実だ。「接種率」には100%という上限がある。「鈍化」は避けられないのだから、今から「議論」しておけばとは感じる。

前村記者は「鈍化」しない可能性もありと見ているのか。ひょっとすると「全員が4回接種したら200%と見なす」といった考え方なのか。


(2)集団免疫の獲得は可能?

クーリエ・ジャポンの12日付の記事によると「集団免疫の達成は、デルタ株の流行によって『不可能だ』と英オックスフォード大学ワクチングループ代表が述べた」らしい。

接種率を高めていけば「集団免疫の獲得」が可能と前村記者は見ているようだが、その前提は正しいのか。可能性を否定している専門家もいるのだから、改めて検討してほしい。

集団免疫の獲得」が可能だとしても、なぜ「接種率」をそんなに上げたいのか理解に苦しむ。

抗体を持つ人の比率が8割になると「集団免疫」が実現するとしよう。しかし「接種率」は「7割」で頭打ちだ。「このままだと集団免疫を獲得できない」と嘆くべきだろうか。

残りの3割うち1割分の人が自然感染で抗体を獲得していれば「集団免疫」を実現できる。なぜワクチンだけで抗体を獲得したがるのか。「自らの感染リスクを下げる『個人防衛』の接種もしたくない人」は「感染」しやすいのだから、自然感染に期待すればいいではないか。

少なくとも「集団免疫」獲得の可能性を考えるときは、自然感染の影響を考慮すべきだ。


(3)「十分な情報」を与えれば接種率は上がる?

「接種=良いこと」と前村記者は信じているので「接種比率が7割に近づくと頭打ちになる『壁』」も「十分な情報」を与えれば「突破」できると考えたくなるのだろう。

29日付でNEWSポストセブンに載った「ワクチン接種者と偽薬接種者の死亡率が同じ~ファイザー公表データの意味」という記事を前村記者はぜひ読んでほしい。

一部を引用しておく。


【NEWSポストセブンの記事】

だが多くの研究者が驚いたのは有効率ではなく、ワクチン接種後の「死亡率」だった。

研究では、16才以上の参加者約4万人を「ワクチン接種群(約2万人)」と、正式なワクチンではない偽薬を与えた「プラセボ群(約2万人)」に分けて、接種後の安全性を確認する追跡調査も行った。

その結果、管理期間中に死亡したのは、ワクチン接種群が15人、プラセボ群が14人だった。つまり、ワクチンを打っても打たなくても、死亡する確率はほとんど変わらなかったのだ。医療経済ジャーナリストの室井一辰さんがこの結果の衝撃度を語る。

「その研究はファイザーの研究者と、ワクチンを共同開発した独ビオンテック社の研究者が行ったもので、4万人を追跡調査する世界最大規模の研究です。これほどの規模の研究はほかにありません。

意外な発見として注目されたポイントは、ワクチン接種群とプラセボ群の死亡率に差がなかったことです。実際に研究者の間ではこの結果が議論の的になっていて、“一体どういうことなんだ”と戸惑う専門家がいるほどです」


◇   ◇   ◇

ワクチンを打っても打たなくても、死亡する確率はほとんど変わらなかった」とすれば、「新型コロナで死ぬのが怖い」という人にとってワクチン接種に意味がない可能性が高まってきた。

ワクチンなしでも死亡リスクがほぼゼロの若者に「打たなくても、死亡する確率はほとんど変わらなかった」ワクチンを打つように勧めるべきなのか。

十分な情報」を与えた時に、合理的な判断ができる若者はワクチン接種するだろうか。都合の悪いデータを隠して接種に誘導しない限り「」は「突破」できないと考える方が自然だ。


※今回取り上げた記事「『7割の壁』と変異型に各国焦り」https://www.nikkei.com/paper/article/?ng=DGKKZO75213060X20C21A8TCT00

※記事の評価はC(平均的)。前村聡記者への評価はCを維持する。前村記者に関しては以下の投稿も参照してほしい。

「積極的安楽死」への踏み込み不足が残念な日経 前村聡記者の解説記事https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/07/blog-post_25.html

日経の記事で「死の権利はあるか」への答えを避けた会田薫子 東大大学院特任教授https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/11/blog-post_5.html

2021年8月29日日曜日

メリットがあれば差別じゃない? クオータ制導入を訴える河合薫氏の無理筋

河合薫氏が相変わらず雑な主張を続けている。ここでは、ITmedia ビジネスオンラインに27日付で載った「河合薫の『社会を蝕む“ジジイの壁”』~10%に満たない女性管理職 なぜ『上』に行けないのか」という記事にツッコミを入れていきたい。タイトルに「ジジイ」という言葉を使うのは感心しないが、とりあえず受け入れて中身を見ていこう。

夕暮れ時の耳納連山

【ITmedia ビジネスオンラインの記事】

東京五輪の開催前のすったもんだの影響でしょうか。「意思決定の場に女性を!」「若い人は男女平等は当たり前!」「昭和おじさんは撤退させるべし!」といった空気が息を吹き返してきました。

といっても、残念なのは社会全体に「女性を!」という空気があるわけではないってこと。


◎属性で見るべき?

まず属性重視なのが気になる。優れた人であっても「昭和おじさんは撤退させる」べきなのか。あるいは「昭和おじさん=全員ダメな人」なのか。いずれも無理がある。

ちなみに自分は「若い人」ではないが「男女平等」主義者だ。「男女平等」を是とする立場から河合氏への批判を展開したい。

続きを見ていこう。


【ITmedia ビジネスオンラインの記事】

女性活用の数値目標や、クオーター制へのアレルギーはいまだに強く、

女性だから優遇されるとか、逆差別では?

「女性だからって能力不足の人をリーダーにするのは、会社にとってマイナスでしょ?」

「優秀な男性がやる気をなくす」

などの意見は、むしろ以前よりも多くなったのでは? と感じることもしばしばあります。

女性軽視発言やセクハラについては多くの人たちが問題にするのに、いったいなぜ、「女性リーダーの数を増やす」ことには否定的なのでしょうか。


◎「クオーター制」がダメなのは当たり前では?

クオーター制」に関する「女性だから優遇されるとか、逆差別では?」「女性だからって能力不足の人をリーダーにするのは、会社にとってマイナスでしょ?」「優秀な男性がやる気をなくす」という疑問はもっともだ。河合氏はこうした意見が「以前よりも多くなった」と嘆くが「差別」に反対するのはそんなに悪いことではない。

議員や管理職に関して一定数を女性に割り当てる「クオーター制」は明らかな性差別だ。男女平等主義者としては「否定的」に捉えるしかない。「クオーター制」導入論者は性差別容認論者でもある。「若い人は男女平等は当たり前」という状況があるのならば「若い人」にとって「クオーター制」の否定は「当たり前」と言える。

続きを見ていこう。


【ITmedia ビジネスオンラインの記事】

「だって若い女性の専業主婦志向、高まってるし」

「だって女性は管理職になりたがらないし」

まずは女性の意識改革でしょ?

といった声が聞こえてきますが、「日本」が女性活躍後進国であって、「女性」が問題ではないのです。


◎日本は「女性活躍後進国」?

まず、日本は「女性活躍後進国」なのか。先進国かどうかは分からないが、日本では十分に「女性活躍」ができていると感じる。河合氏は「女性管理職比率が低い=女性活躍後進国」と見ているようだ。しかし、「専業主婦」も子育てなどで立派に「活躍」している。平社員やパート・アルバイトとして働く女性も、その「活躍」で社会を支えている。

なぜ平社員や「専業主婦」を「活躍」していない人々と捉えるのか。その気持ちが理解できない。

さらに続きを見ていく。


【ITmedia ビジネスオンラインの記事】

「社会の問題」から「個人の問題」にすり替えてしまうことは、問題の本質に向き合っていません。

女性は人口の半分いるのに、衆議院議員に占める女性の割合が9.9%なのは明らかに不自然です。


◎すり替えてる?

女性は人口の半分いるのに、衆議院議員に占める女性の割合が9.9%なのは明らかに不自然」だとは思わないが、仮に「不自然」だとしよう。「女性」がこの状況をおかしいと思うのならば「女性」だけの力で簡単に解決できる。「女性」が新党を立ち上げて大量の「女性」候補者を擁立し、その候補者を「女性」有権者が支持する。これだけで「衆議院議員に占める女性の割合」は確実に向上できる。

選挙権も被選挙権も男女平等に与えられているのに、なぜそれを生かそうとしないのか。「女性」にやる気がないからというのなら、それこそ「まずは女性の意識改革でしょ」。

続きを見ていこう。


【ITmedia ビジネスオンラインの記事】

労働力人口総数に占める女性の割合は 44.4%なのに、管理職に占める女性の割合が8.9%なのも明らかにおかしい。

入社したときには「4割超」が女性なのに、管理職になると「1割以下」になってしまう正当な理由を、私はいままで聞いたことがありません。結局、階層組織の「上」の人たちが、女性に期待していないのです


◎「正当な理由」はあるのでは?

女性の方が男性に比べて管理職になりたがらないという調査結果は出ている。よく言われることなので、河合氏も当然に知っているはずだ。これで「管理職に占める女性の割合」の低さはかなり説明できる。なのになぜ「階層組織の『上』の人たちが、女性に期待していない」となってしまうのか。

河合氏のような性差別容認論者が「クオーター制」の導入を訴えることを完全に否定はしない。強力なメリットがあれば、明らかな性差別である「クオーター制」でも賛成できる余地はある。しかし、導入論者が提示してくるメリットはいつも苦しい。そこも見ておこう。


【ITmedia ビジネスオンラインの記事】

クオーター制を逆差別とする根強い意見がありますが、実際には、国内外の研究でクオーター制を導入した方が「男性の能力が引き出される」ことが示されています

多くの実験研究で、男性の場合、競争相手がいる方がパフォーマンスが向上することが分かっていますが、同じグループに女性がいることで「僕は絶対に競争に勝てる」という自信が高まり、潜在的な能力を発揮しやすくなる可能性が分かっているのです。

日本では、大阪大学などの研究者たちが興味深い実験を行っています(「自信過剰が男性を競争させる」2009年)。

この実験では、グループの男女比にバリエーションをつけ、「全員男性」「全員女性」「男性3人女性1人」「男性2人女性2人」「男性1人女性3人」という5つのグループで、メンバーたちの競争への自信にどのような変化が生じるかを調べました。

その結果、男性は「全員男性」のグループで競争するときは、自信がなくなる傾向が認められたのに対し、女性が競争に加わったとたん競争に勝つ自信が出ることが分かりました。一方、女性では「全員女性」のグループで競争するときには、「勝つ自信」を持てるのに対し、男性が競争に加わった途端、自信がなくなることが分かったというのです。

「勝つ自信」は自分への信頼なので、自己効力感を高めます。人は「自分はできる」と信じる(=自己効力感)からこそ、能力を最大限に発揮できる。集中して、タスクに取り組むことが可能になります。


◎色々と問題が…

クオーター制を逆差別とする根強い意見がありますが、実際には、国内外の研究でクオーター制を導入した方が『男性の能力が引き出される』ことが示されています」という説明がまず引っかかる。「クオーター制」にメリットがあるとしても、それは「逆差別」を否定しない。「クオーター制」導入を訴えるならば、それが「差別」であることから逃げない方がいい。そうしないと、どうしても無理が生じる。男女平等主義者からの批判に性差別容認論者として堂々と立ち向かってほしい。

大阪大学などの研究者」による研究が「クオーター制」導入のメリットを示しているかどうかも見ていこう。

ここで言っているのは「女性が競争に加わったとたん(男性は)競争に勝つ自信が出る」というだけだ。端的に言うと、どうでもいい。メリットとして弱すぎる。しかも「自信過剰が男性を競争させる」というタイトルが付いている。「自信過剰」が好ましいとは限らない。

女性が競争に加わったとたん競争に勝つ自信が出る」ことをプラスに捉えるとしても、だとしたら「競争」に加える女性は1人でいい。「女性では『全員女性』のグループで競争するときには、『勝つ自信』を持てるのに対し、男性が競争に加わった途端、自信がなくなる」のだから、男性が参加する「競争」に加える女性の人数は1人がベストだ。そうなると、既に「女性リーダー」がいる企業で「『女性リーダーの数を増やす』ことには否定的」となるのは理に適っている。

しかし河合氏は「『3割の女性』が必要不可欠」だと訴える。その根拠も見ていこう。


【ITmedia ビジネスオンラインの記事】

ただし、マイノリティーである「女性」が意見を堂々と言えるには、最低でもグループに「3割の女性」が必要不可欠です。1割=紅一点だと、男性に排除されるか、同化させるかのどちらかになり、2割だと遠慮して言いたいことが言えません。やっと3割になって意見が言えるようになり、4割になると「女性の視点って面白いね! もっと意見を聞きたい! みんなももっと意見だそうよ!」という空気が熟成され、性別などの属性の壁が崩壊します。

さて、あなたはいつまで「男だから~」「女だから~」と言い続けますか? あるいは、「壁崩壊」に向かうための「変革の担い手」を目指すか?

どちらが「自由」な社会なのか? 是非とも考えてみてください。


◎だったら女性国会議員は…

『女性』が意見を堂々と言えるには、最低でもグループに『3割の女性』が必要不可欠」らしい。何を根拠にそう言っているのか分からないが、そういうものだとしよう。

衆議院議員に占める女性の割合が9.9%」なので衆院の女性議員は「遠慮して言いたいことが言え」ない状況にあるはずだ。とてもそうは見えないが、河合氏の主張を信じれば国会の場で堂々と「意見が言える」女性議員は衆院にはいない。つまり役立たずだ。投票してくれた有権者の期待に応えていない。

3割」もいないと「意見が言える」ようにならないのならば「女性リーダー」は要らない。例えば開発部門の取締役が「女性」になったとして、取締役の中で女性が2割以下の場合には「遠慮して言いたいことが言え」ない訳だ。そんな上司を持つ部下は辛い。商品開発にも悪影響が出そうだ。

リーダー」になってもらうなら、少数派であっても言うべきことはきちんと言える人物が好ましい。それができる「女性」が皆無ならば、「リーダー」は全員男性でいい。

あなたはいつまで『男だから~』『女だから~』と言い続けますか?」と問うているが「言い続け」ているのは河合氏の方だ。男女平等主義者の立場で言えば「リーダー」を選ぶ上で性別を考慮する必要はない。なので当然に「クオーター制」も要らない。「『男だから~』『女だから~』」は関係ない。例えば、企業で各部門の「リーダー」を選ぶときには「リーダー」として必要な資質を考慮するだけでいい。結果としての全員女性も全員男性もありだ。

河合氏は男女平等の原則という「」を壊して「クオーター制」を導入したいのだろう。だったら「クオーター制」に関する強力なメリットが要る。それを提示できないのならば男女平等の原則堅持でいい。

男女平等主義者からの批判に河合氏はどう反論するのか。注目したい。


※今回取り上げた記事「河合薫の『社会を蝕む“ジジイの壁”』~10%に満たない女性管理職 なぜ『上』に行けないのか

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2108/27/news028.html


※記事の評価はE(大いに問題あり)。河合薫氏に関しては以下の投稿も参照してほしい。

安倍首相らを「ジジイども」と罵る河合薫氏の粗雑さhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2018/06/blog-post_7.html

2021年8月28日土曜日

結局は経済成長至上主義のまま? 日経1面連載「人口と世界」

「経済成長のために人口増加が必要」からは脱却できても経済成長至上主義からは脱却できない。28日の日本経済新聞朝刊1面に載った「人口と世界~成長神話の先に(6)忍び寄る停滞とデフレ~『日本病』絶つ戦略再起動」という記事はそんな中身だと感じた。一部を見ていこう。

夕暮れ時の筑後川

【日経の記事】

人口減で忍び寄る停滞とデフレを、政策担当者は「日本化」と呼んで恐れる。欧州も2022年に人口が減り始める。欧州中央銀行(ECB)は23年の物価上昇率が目標の2%に遠く届かないとみる。オランダ金融大手INGの指数では、ユーロ圏は13年から日本化の兆候がみられるという。

過去200年の人口爆発は、人類史でまれな高成長とインフレの時代だった。18世紀の英国の物価上昇率は平均で1%程度でマイナスに陥る時もあったが、産業革命を経て第2次世界大戦後には平均6%に高まった。

最も過熱感が強まったのは世界で年2%人口が増えた1970年代前半。経済成長率は平均4%台を記録し、インフレ率は年10%だった。先進国が社会保障制度を相次ぎ拡充した「福祉の黄金時代」もこのころだ。

だが高成長・高インフレを前提にした社会システムに亀裂が走る。世界人口の伸びは1%に減速、成長率やインフレ率はともに2%台に鈍化した。金利低下は歴史的水準となり、年金制度の維持に暗雲がたれこめる


◎「安定」は悪くないのでは?

高インフレ」が好ましくて「デフレ」はまずいという考えには賛成できない。記事中のグラフには「人口爆発が終われば物価低迷の懸念も」と説明文を付けているが「物価低迷」は悪くない。物価は安定している方が生活しやすい。過去30年間の日本の物価はほぼ横ばいだ。低金利下での「高インフレ」よりはるかに好ましい。

人口が増えないのだから「高成長」も必要ない。生活水準の高い先進国でさらに1人当たりGDPを高める必要があるのか。

金利低下は歴史的水準となり、年金制度の維持に暗雲がたれこめる」との説明も納得できない。日本の「年金制度」が資金的制約から「維持」できなくなることはない。政府・日銀は無限に日本円を創出できる。「デフレ」が続くのならば「高インフレ」の心配も不要だ。

一方、金利上昇が「高インフレ」を伴うならば「年金」支給額も増やす必要があるので「高金利=年金制度の維持が容易」とは言い切れない。

記事の終盤も見ておこう。


【日経の記事】

公共投資を積み増しても使われなければ政府債務が膨らむだけだ。「景気刺激策を続けても人口減少の影響は恐らく穴埋めできない」(欧州政策研究センターのダニエル・グロー氏)

かつての成長神話は通用しない。日本病の克服には、縮む需要を喚起する成長分野への投資が欠かせない。デジタルトランスフォーメーション(DX)や働き手のリスキリング(学び直し)で生産性を高め、高齢化など人類共通の課題を解決するイノベーションも求められる。従来型の経済政策を大胆に見直すことが必要だ


◎具体策は?

かつての成長神話は通用しない」と言いながら「日本病の克服には、縮む需要を喚起する成長分野への投資が欠かせない」となってしまう。「かつての成長神話」では「成長分野への投資」が要らないとされていたのか。

成長分野への投資」を進めても「日本病の克服」にはつながらない可能性を考えてほしかった。

例えば電気自動車が「成長分野」だとしよう。そこへの「投資」を進めても、ガソリン車の需要がそれ以上に減れば自動車全体の需要は伸びない。

1人当たりの保有台数が増えれば話は別だ。しかし、そこを追い求めるべきなのか。

デジタルトランスフォーメーション(DX)や働き手のリスキリング(学び直し)」を推進したところで、経済全体で見た需要が増えなければ「日本病の克服」にはつながらない。

取材班が考える「成長分野」とはどこなのか。「高齢化など人類共通の課題を解決するイノベーション」とは具体的に何を指すのか。「従来型の経済政策を大胆に見直すことが必要だ」と言いながら、どう「見直す」のかもよく分からない。

取材班にも具体策はないのだろう。だったら経済成長がない中で人々が幸福に暮らすにはどうすべきかという観点で考えてほしかった。

日本病」と言われながらも「国民生活の世論調査」で現在の生活に「満足している」「まあ満足している」と回答した人の割合は過去最高水準らしい。その辺りにヒントがあるのではないか。


※今回取り上げた記事「人口と世界~成長神話の先に(6)忍び寄る停滞とデフレ~『日本病』絶つ戦略再起動

https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210828&ng=DGKKZO75230860Y1A820C2MM8000


※記事の評価はC(平均的)

2021年8月27日金曜日

事実誤認に基づいてアスリートを批判する上野千鶴子氏の罪

社会学者の上野千鶴子氏が誤解に基づく主張を続けている。26日付でAERA dot.に載った「東京五輪閉幕~日本人が莫大な授業料を払って学んだ『負の遺産』〈週刊朝日〉」という記事に関して問題点を指摘していきたい。

夕暮れ時の筑後川

【AERA dot.の記事】

(五輪開催によって)スポーツ界やアスリートに対する反感すら生まれたように思います。さかのぼれば森喜朗オリパラ組織委会長辞任に際してのスポーツ界の沈黙は不気味でした。現役アスリートたちが、利権と金にがんじがらめになっていることがわかりました


◎「スポーツ界の沈黙」があった?

さかのぼれば森喜朗オリパラ組織委会長辞任に際してのスポーツ界の沈黙は不気味でした」と上野氏は言うが、そもそも「沈黙」していたのか。

2月9日付の時事通信の記事によると、森氏の問題に関して「少し無知。立場のある人は発言する前に考えなければ」(女子テニスの大坂なおみ選手)、「今回の五輪は多様性がメイン。代表の方がそういう発言をして、私たち選手や五輪がそういうふうに見られるのが悲しい」(陸上女子100メートル障害の寺田明日香選手)といった発言が「スポーツ界」から出てきたらしい。

毎日新聞の記事では「非常に残念だし、がっかりした。そういう発言をするような思考回路に行き着くのが、ちょっと信じられない」と競泳男子400メートル個人メドレーの萩野公介選手が述べたことを伝えている。それでも「スポーツ界の沈黙は不気味」だったのか。

上野氏が事実を重視しない学者であることは繰り返し伝えてきた。ここでも上野氏らしさが出ていると言えば出ている。

百歩譲って「スポーツ界の沈黙」があったとしよう。だからと言って「現役アスリートたちが、利権と金にがんじがらめになっていること」が分かるのか。森氏の問題で全ての「現役アスリート」はコメントすべきであり、それを怠ると「利権と金にがんじがらめになっている」と認定されてしまうのか。

続きを見ていこう。


【AERA dot.の記事】

アスリートは五輪に人生を賭けてひたすらストイックに鍛錬に励んできた人々、彼らを責めるのは筋がちがう、という声は多く聞かれましたが、メダル獲得後に彼らが口にしたのは、五輪開催にこぎつけた主催者とそれをサポートしたひとたちへの感謝だけでした。同じ時期に自宅療養を強いられるコロナ患者や、疲弊した医療者への配慮や同情は聞かれませんでした。人工呼吸器をつけてコロナと闘っている患者や医療者が、アスリートから「勇気と感動を与えたい」と言われても、素直に受けとれるでしょうか。「アスリート・ファースト」とは、アスリートのエゴイズムかとすら思えます


◎本当にそれだけ?

メダル獲得後に彼らが口にしたのは、五輪開催にこぎつけた主催者とそれをサポートしたひとたちへの感謝だけでした」という説明は明らかに違う。当然だが「メダル獲得後」には「感謝」以外のことも語る。試合を振り返ったり、五輪後についてコメントしたりしている。

では「感謝」に関しては「主催者とそれをサポートしたひとたち」に向けた言葉しかなかったのだろうか。参考までにバドミントン混合ダブルスで銅メダルを獲得した渡辺勇大・東野有紗選手のコメントを見てみよう(日テレNEWS24の記事より)。

福島で育ったといっても過言ではないし、福島で過ごした6年間が僕の中ではすごく大切で、かけがえのない時間だったと思っている。震災とか色々なことがあって苦しい方もたくさんいらっしゃると思うが、そんな中でも僕らを諦めず応援してくれてサポートしてくれた方々に、何か少しでも勇気や感動を与えられたらという思いで五輪を戦っていた。銅メダルを獲得したことで、少しでも恩返しができたらという気持ちで今はいっぱい」(渡辺選手)

福島で過ごした6年間は自分にとってかけがえのない6年間で、この6年間がなければ今、私がここにいることはないと思う。福島県の方々にはたくさんお世話になったし、恩返しをしたい気持ちでこの五輪に臨んだ」(東野選手)

どちらも「主催者とそれをサポートしたひとたち」にだけ「感謝」を伝えている訳ではない。「福島県の方々」に向けて広く感謝の言葉を伝えている。そもそも「感謝」さえ伝える必要はない。スポーツの大会に出場して3位以内に入っただけだ。「嬉しい」とか「気分いい」としか発言しなかったとしても責められる話ではない。

しかし様々な選手が多くの人々への感謝を述べた。それで十分ではないか。高齢者である上野氏が新型コロナウイルスを恐れる気持ちは理解できる。だからと言って、懸命に戦ったアスリートを「責める」べきなのか。

医療従事者の皆さんをはじめ 最高の舞台を準備し整えてくれた大会関係者の皆さん スタジアム、テレビの前から応援してくれた皆さん スタジアム、ホテル、選手村ボランティアの皆さん 毎日笑顔で明るい雰囲気、最高の空間でした。沢山の方へ 本当にありがとうございました

準々決勝で敗れた後にサッカー女子日本代表の岩渕真奈選手が残した言葉だ。ここに上野氏は「アスリートのエゴイズム」を見るのだろうか。


※今回取り上げた記事「東京五輪閉幕~日本人が莫大な授業料を払って学んだ『負の遺産』〈週刊朝日〉

https://news.yahoo.co.jp/articles/b97d3417d7bf822c404df27980690079a5ad3e89


※記事の評価はE(大いに問題あり)。上野千鶴子氏に関しては以下の投稿も参照してほしい。

五輪開催はアスリートに罪あり? AERAdot.の記事に見える上野千鶴子氏の問題https://kagehidehiko.blogspot.com/2021/08/aeradot.html

東洋経済「会社とジェンダー」で事実誤認発言を連発した上野千鶴子氏https://kagehidehiko.blogspot.com/2021/06/blog-post_10.html

「女性にすべてのシワ寄せが来る」と東洋経済で訴えた上野千鶴子氏の誤解https://kagehidehiko.blogspot.com/2021/06/blog-post_11.html

日経ビジネスで「罰則付きクオータ制」の導入を求める上野千鶴子氏に考えてほしいことhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2020/11/blog-post_22.html

日経女性面でのクオータ制導入論が「非論理的」な上野千鶴子氏https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/01/blog-post_27.html

「ダイバーシティー推進で企業はもうかる」と断定する上野千鶴子氏の誤解https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/07/blog-post_22.html

2021年8月26日木曜日

大沢真知子 日本女子大名誉教授の「偏見」が見える日経「Nextストーリー」

女性問題を扱った記事で「無意識の偏見」という言葉が出てきたら要注意と訴えてきた。25日の日本経済新聞朝刊ビジネス2面に載った 「〈Nextストーリー〉思い上がれない女性たち(上)自信そぎ活躍阻む偏見~私は『詐欺師症候群』経営者も自己否定」という記事もそうだ。一部を見ていこう。

ビューホテル平成

【日経の記事】

国立女性教育会館が15年の新入社員約2100人を対象に実施した調査では、管理職を目指さない理由について「自分には能力がないから」としたのは入社1年目で男性が26.1%なのに対し、女性は38%に達した。

聖心女子大学の教授らが07~10年に各国で実施した調査では「管理職をめざしたい」という質問に「とてもそう思う」「まあそう思う」とした日本の女性はわずか26%。60~70%台だった他国と比べて著しく低かった。

「人生のあらゆる場面で女性は自分の力を疑ってしまう」。日本女子大学の大沢真知子名誉教授は、社会の「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」が自信を奪う一因だと指摘する


◎それこそ「偏見」では?

人生のあらゆる場面で女性は自分の力を疑ってしまう」と「日本女子大学の大沢真知子名誉教授」は信じているようだ。「人生のあらゆる場面で(全ての)女性は(必ず)自分の力を疑ってしまう」という意味なら、これこそ「偏見」だ。「管理職をめざしたい」かどうかを問う質問にも「26%」が前向きだ。

人生のあらゆる場面で(一部の)女性は(時に)自分の力を疑ってしまう」という意味なら、その通りだろう。だが、これは男性にも当てはまる。「女性」を特別視する理由はない。

記事の続きを見ていこう。


【日経の記事】

家庭や学校で、女の子は男の子に比べて聞き分けのある「良い子」であることを求められがちだ。その半面、間違えることを過度に避け、失敗すれば自分の能力や努力不足と落ち込む。CMやドラマでは女性が男性を補佐するシーンが頻繁に流れ「社会のあり方」としてすり込まれる。


◎根拠は?

家庭や学校で、女の子は男の子に比べて聞き分けのある『良い子』であることを求められがちだ」と書いているが根拠は示していない。これでは何とも言えない。個人的には「間違えることを過度に避け」る傾向があるのは「男の子」のような気もする。

「男は働いて収入を得なければならない」という社会的圧力が強いからだ。結婚相手に経済力を求める傾向は女性に顕著なので、男性は進路選択などでリスクを冒しにくい。

人生に「失敗」して無差別殺人に走ったりするのも、ほとんどが男性だ。自殺者数も男性の方が圧倒的に多い。男性が「間違えることを過度に避け」たくなる気持ちは分かる。

いずれにせよ、何らかのデータがないと「間違えることを過度に避け、失敗すれば自分の能力や努力不足と落ち込む」傾向が強いは女性と言えるのか判断できない。

CMやドラマでは女性が男性を補佐するシーンが頻繁に流れ『社会のあり方』としてすり込まれる」という説明も納得できない。今は逆のパターンも当たり前にある。例えば10年ほど前のテレビドラマ「BOSS」では、主演の天海祐希が警察で「ボス」を演じていて、部下には何人もの男性刑事がいた。当時から何の違和感もなかった。さらに時が流れているのに「女性が男性を補佐する」ものだと「すり込まれ」ていると心配する必要があるのか。

さらに見ていこう。


【日経の記事】

社会人のキャリア初期には「女性の昇進を阻む『ガラスの天井』ならぬ『くっつく床』が待ち構える」(大沢さん)。キャリア発展に見込みのない仕事が振られたり、「女性には大変だ」との不要な配慮から負担の多い仕事が男性に回されたりする。失敗が回避される代わりに自信が身につかず、会議での発言や昇進を控えたりと「身の丈にあった」行動を自らとるようになってしまう。


◎これまた根拠が…

社会人のキャリア初期」には「『くっつく床』が待ち構える」という「大沢真知子名誉教授」のコメントを使っているが、やはり根拠は示していない。「キャリア発展に見込みのない仕事が振られ」ることは男性にもある。「女性」の方が圧倒的に多いと見ているのならば、それを裏付けるデータが欲しい。根拠がないとしたら、筆者は自らの「無意識の偏見」を疑うべきだ。

不要な配慮から負担の多い仕事が男性に回されたりする」というくだりも根拠は見当たらないが、とりあえず受け入れてみよう。しかし後に続く「失敗が回避される代わりに自信が身につかず」という説明は謎だ。

「負担の少ない仕事ばかりで失敗しないので女性は自信を付けやすい」という可能性も十分に考えられる。男性にしてみれば「負担の多い仕事を回されるために失敗する確率が高く自信を失いやすい」かもしれない。

ご都合主義的にストーリーを組み立てていないか。

そもそも「管理職をめざしたい」と思わない女性を「自信を持てない女性」と捉える必要があるのか。「国立女性教育会館が15年の新入社員約2100人を対象に実施した調査では、管理職を目指さない理由について『自分には能力がないから』としたのは入社1年目で男性が26.1%なのに対し、女性は38%に達した」と記事でも書いている。

男性が26.1%」で「女性は38%」ならば大して差はないし、「管理職を目指さない」女性に限っても過半は「自分には能力がないから」とは回答していない。わずかな差を大げさに考えている気がする。


※今回取り上げた記事 「〈Nextストーリー〉思い上がれない女性たち(上)自信そぎ活躍阻む偏見~私は『詐欺師症候群』経営者も自己否定」https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210825&ng=DGKKZO75094300U1A820C2TB2000


記事の評価はD(問題あり)

2021年8月25日水曜日

少子化対策でフランス見習えが残念な日経1面連載「人口と世界(3)」

少子化に関する現状認識がまともになっている感じはあるが、まだまだ問題は多い。25日の日本経済新聞朝刊1面に載った「人口と世界~成長神話の先に(3)少子化克服は『百年の計』~出生率1.5の落とし穴」という記事への評価はそんなところだ。内容を見ながら具体的に論じたい。

香山昇龍大観音

【日経の記事】

超少子化に陥る分水嶺とされる出生率1.5を長く下回った後に回復した国はほぼない。子どもが少ないのが当たり前の社会になり、脱少子化が困難な「低出生率のわな」に陥る。1.34の日本も直面する現実だ。


◎なぜ「1.5」にこだわる?

超少子化に陥る分水嶺とされる出生率1.5を長く下回った後に回復した国はほぼない」と説明しているが、記事に付けたグラフを見る限りでは「1.5」が「分水嶺」となっている感じはない。「人口置換水準(出生率で約2.1)を下回った国が、そこから人口置換水準を安定的に超えるところまで回復させるのは至難」と読み取る方が自然ではないか。

続きを見ていこう。


【日経の記事】

なぜ少子化が進むのか。人口学者が指摘するのは、女性の教育と社会進出だ。男女格差が縮小するのは社会にとって大きな前進だが、女性にばかり育児の負担がかかる環境が変わらないと、働きながら望むように子どもを産み育てられない。

「フルタイムで働きながら子育てなんて考えただけで疲れる」。バンコクの女性大学院生(35)は嘆く。タイの20年の出生率は1.5で低出生率のわなの瀬戸際に立つ。

タイ女性の大学進学率は58%で男性の41%を上回る。英HSBCによると、大部分の国民が高等教育を受ける国で高出生率の国は一つもない。だが女性の教育を後戻りさせるわけにはいかない

福祉国家フィンランドも出生率が10年の1.87から急減し、20年は1.37。子育て支援が手厚いはずの同国の急降下は大きな謎とされる。非政府組織(NGO)の人口問題連盟の調査ディレクター、ベンラ・ベリ氏は「女性は男性にもっと平等に家庭に参加してほしいと考えている」と指摘する。


◎進歩はあるが…

日経は2020年1月の社説で「少子化を克服した国はもっと先をゆく。フィンランドなどは、ベビーカーを押しながら運賃を片手で払うのは危ないという配慮からベビーカー連れの乗客を無料にしている」と書いていた。完全に誤解している。

当時「フィンランド=少子化を克服した国…という認識は誤りではないか」との問い合わせを送ったが、回答も訂正もなかった。今回、改善は見られる。少なくとも「フィンランド」を「少子化を克服した国」とは見なしていない。

だが問題は残る。少子化が進む理由が「女性の教育と社会進出」だとしたら、そこを逆戻りさせるのが素直だ。しかし「女性の教育を後戻りさせるわけにはいかない」となると手詰まりに陥ってしまう。そこであれこれ別の手を考えたくなるが、どうしても無理が出てきてしまう。それが以下のくだりだ。


【日経の記事】

ントはどこにあるのか。少子化対策の優等生といわれてきたフランス。ここ数年は出生率が下がりつつあるが、それでも1.8台を維持する。子育て支援などの家族関係社会支出は国内総生産(GDP)比で2.9%と日本の約2倍だ。

きっかけは1870年の普仏戦争だ。直前まで欧州で人口最大だった仏がドイツに逆転され、敗戦も喫した。仏が少子化対策を「国家百年の計」とした背景には、この苦い記憶がある。仏は家族のあり方も大きく変え、1999年に事実婚制度PACSを導入した。2019年に仏で生まれた子の6割が婚外子だ


◎それでも頼りはフランス?

ほとんどの先進国の出生率は人口置換水準を下回っている。フランスも例外ではなく、さらに「ここ数年は出生率が下がりつつある」。それでもフランスに頼って「ヒント」を見つけようとする。そんなにフランスが好きなのか。

ヒント」が見つかるならいい。しかし、そうはなっていない。フランスの「子育て支援などの家族関係社会支出は国内総生産(GDP)比で2.9%と日本の約2倍」らしい。ここから何を学べるだろう。単純に考えれば「家族関係社会支出」を日本が大幅に増やしても大した効果は見込めないということか。

1999年に事実婚制度PACSを導入した。2019年に仏で生まれた子の6割が婚外子だ」とも書いている。これの何が「ヒント」なのか。「事実婚制度PACS」が少子化対策として機能したと見ているのならば、その根拠を示すべきだ。「2019年に仏で生まれた子の6割が婚外子」だとしても「事実婚制度PACS」が出生率を高めた根拠にはならない。

付け加えると「事実婚制度PACS」がどんな制度なのか説明していないのも引っかかる。それで「家族のあり方も大きく変え」と言われても、どう変わったのかよく分からない。

日本で「事実婚制度」を取り入れて「婚外子」が増えても、結婚した夫婦から生まれる子供がその分減るだけかもしれない。「いやフランスではそうなっていない」と取材班が考えるのならば、その根拠を読者に示すべきだ。

さらに言えば「きっかけは1870年の普仏戦争」なのに「事実婚制度PACS」の導入は「1999年」。100年以上が経っている。この間の「少子化対策」に触れずに「少子化対策を『国家百年の計』とした」と言われてもとは思う。

ここから記事を最後まで見ていこう。

【日経の記事】

儒教思想が根強い韓国でも4月、家族の定義を見直す方針を打ち出した。婚姻や血縁などによる家族の定義を民法から削除し、事実婚カップルらも家族と認める。制度を変えても社会に根付くには時間がかかるため、発想の転換を急ぐ。

「産めよ殖やせよ」と声高に叫ぶ時代ではない。それでも安心して子育てができる社会をつくるには一定の出生率の維持が欠かせない。社会全体の生産性を上げなければ経済や社会保障は縮小し、少子化が一段と加速する悪循環に陥りかねない。百年の計をいまこそスタートさせる時だ。


◎具体策は?

まず「安心して子育てができる社会をつくるには一定の出生率の維持が欠かせない」という説明がよく分からない。「一定の出生率」が不明なので取材班がこだわる「1.5」だとしよう。しかし、移民に頼らない前提では「1.5」を維持しても人口は減っていく。

では「1.5」を下回る国では「安心して子育てができる社会」を作れないのか。むしろ逆ではないか。世界を見回してみれば分かるだろう。高い出生率を維持する途上国と、人口置換水準を軒並み下回る先進国。取材班にはどちらが「安心して子育てができる社会」に見えるのか。

人口が減れば「経済や社会保障は縮小」するかもしれない。しかし1人当たりの水準が低下するとは限らない。「社会全体の生産性を上げ」る必要もない。「生産性」が横ばいなら1人当たりのGDPも横ばいだ。人口が減る中で国として今の経済規模を維持する必要があるのか。そこを考えてほしい。

今回の記事では「百年の計をいまこそスタートさせる時だ」と訴える割に、日本が何をすべきか具体策を示していない。日本版「PACS」を導入したいのかとも感じるが、そうは書いていない。

本気で少子化を克服したいのならば「『産めよ殖やせよ』と声高に叫ぶ」べきだ。その上で「子供ゼロなら貧乏人、1人か2人で並みの暮らし、3人以上持てば裕福に、5人以上で立派な富裕層」といった方向に税制などを作り替えるべきだろう。

もちろん社会的な抵抗は大きくなる。それが嫌ならば少子化を受け入れるしかない。個人的には受け入れでいい。

少子化放置を前提に国の在り方を考える。そうした「百年の計をいまこそスタートさせる」べきだ。


※今回取り上げた記事「人口と世界~成長神話の先に(3)少子化克服は『百年の計』~出生率1.5の落とし穴

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFE2575A0V20C21A5000000/


※記事の評価はD(問題あり)

2021年8月24日火曜日

鷲尾香一氏が現代ビジネスで唱えた「財政破綻」シナリオに見える認識不足

財政破綻」に関しては、おかしな解説が相変わらず多い。24日付の現代ビジネスにジャーナリストの鷲尾香一氏が書いた「日本は本当に『財政破綻』しない…? 現実味を帯びる『金利上昇』で待ち受ける最悪のシナリオ」という記事もそうだ。「金利上昇」によって「財政破綻」という「シナリオ」が「現実味を帯びる」と鷲尾氏は訴える。そのくだりを見ていこう。

夕暮れ時のうきは市

【現代ビジネスの記事】

仮に日本でも金利の引き上げが行われれば、企業の借入金利の上昇を呼び、企業活動に影響が出るし、住宅ローン金利の引き上げなど国民生活に直撃する。もっとも問題なのは、政府債務(国債発行)に強烈な打撃を与える可能性があることだ。

政府にとっては、金利上昇で国債の利回りも上昇するので、国債発行の負担が大きくなる。金利負担が増加すれば、新規の国債発行も減らさなければならなくなるし、安易に借換債を発行することも困難になるだろう。

借換債を減少せざるを得なくなれば、国債の償還を進める必要があり、財政は強烈な緊縮政策を行う必要に迫られる。

それは日本の財政政策に対する信認が崩れることを意味する。国債発行の継続性や国債償還への疑念が芽生えれば、国債の価格は急落する危険性を秘めている。


◎逆では?

現在は日銀が長期金利もコントロールしているので、金利が政府・日銀の望まない水準へ上昇することは基本的にない。だが、そのことは置いておいて、市場の価格決定機能に委ねた結果として「国債の利回り」が上昇したとしよう。

鷲尾氏によると「財政は強烈な緊縮政策を行う必要に迫られる」らしい。そうとも限らない気がするが、これも受け入れよう。だとしても「それは日本の財政政策に対する信認が崩れることを意味する」という説明はおかしい。支出削減や増税などによる「強烈な緊縮政策」を実行に移せば、いわゆる財政健全化に向けて動き出している。「信認」が高まるならともかく、なぜ「信認が崩れる」のか。

しかも「借換債」が減り「国債の償還」が進むのならば、「国債」の需給は締まるはずだ。つまり価格が上がりやすくなる。なのに「国債の価格は急落する危険性を秘めている」と見るべきなのか。基本的に逆だ。

さらに見ていこう。


【現代ビジネスの記事】

国債は安全資産という認識があることで、政府がいくら国債を発行しても国債は誰かが購入してきたが、“国債は危ない”となれば、誰が国債を購入するのであろうか。否定派が言うように、本当に国内で購入されているから大丈夫なのか。日銀が購入するから大丈夫なのだろうか

国債価格の急落は日銀の資産内容を悪化させる。同様に、銀行や生損保、年金といった国債を大量に保有する機関投資家の資産内容も悪化する。

否定派は、日銀は日銀券(紙幣)をドンドン発行すれば問題はないと主張するかも知れない。だが、日銀券は日銀の負債にあたる。

資産の裏付けなく日銀券を発行することは、日銀の財務内容が悪化することを意味する。日銀の自己資本は10兆円程度しかなく、国債価格の下落は日銀の債務超過に直結するのだ。

また、銀行が日銀に預けている当座預金も日銀の負債だ。そして日銀が国債を購入するために使っている資金は、元はと言えば銀行に預けている国民の預金なのだから、日銀の資産内容の悪化は、つまるところ国民の資産内容が悪化するとも考えられる


◎日銀の購入能力に限界はある?

日銀が購入するから大丈夫なのだろうか」と問うたものの、鷲尾氏の出した結論は「つまるところ国民の資産内容が悪化するとも考えられる」というものだ。これも受け入れてみよう。しかし「財政破綻」という「シナリオ」には結び付かない。

国債は危ない」となって「日銀」以外の買い手が消えたとしよう。しかし「日銀」が購入する限り「財政破綻」には至らない。この前提で言えば、問題は「日銀」の購入能力だ。そこに能力的な限界はない。政府・日銀は無から日本円を創出できる。保有している金の時価に見合った分だけしか購入能力がないといった話ならば「日銀」の購入には限界があり、そこで「財政破綻」の「シナリオ」が現実味を帯びる。

しかし今の「日銀」にそうした制約はない。仮に「国民の資産内容が悪化する」としても、だからと言って「財政破綻」してしまう訳ではない。

さらに見ていこう。


【現代ビジネスの記事】

財政政策への不安は“国債の格下げ”にもつながる。格下げされれば、国債への信認が一段と低下し、国債の担保価値は減少。購入者が減少して国債発行が難しくなる。企業や金融機関に対する格付けは、国債の格付けが上限となるため、日本の企業や金融機関の格付けも格下げされ、国際競争力が低下することになる。

以上、金融緩和政策の終焉を例にあげ、そのリスクシナリオを説明したが、新型コロナウイルスの発生のように金利上昇は何をきっかけに起きるかは予測できない。リーマンショックのように経済危機がいつ起こるかは、誰にも予測できないのだ。

否定派は国債を発行しても、建設国債には見合いの資産があり、国が保有する資産も豊富にある。また、20年12月末の個人金融資産は約2000兆円もあるから大丈夫と主張する

だが、国の資産はすぐに現金化できるものは少ない。それに、個人金融資産を国債が安全な理由としてあげるのは、いざとなれば国債を返済不能として、その穴埋めとして個人金融資産で賄うと言っているようなものだ。


◎「個人金融資産で賄う」必要ある?

自分も鷲尾氏の言う「否定派」に当たるが「個人金融資産は約2000兆円もあるから大丈夫」などとは全く思わない。「財政破綻」を心配する必要がないのは、無限に日本円を創出する力を政府・日銀が持っているからだ。なので、円建て政府債務の不履行による「財政破綻」は、政府が自らの手足を縛るような法律でも作らない限りあり得ない。

この考えに対する反論を聞きたい。基本的には「政府・日銀に無限に日本円を創出する能力などない」「無限に日本円を創出する能力があっても債務不履行に陥る可能性はある」のどちらかだ。

後者に関しては、その可能性を否定はしない。政府支出の上限を定める法律などができるとの前提であれば「財政破綻」の「シナリオ」は描ける。しかし鷲尾氏はそういう話をしていない。

結論部分も見ていこう。


【現代ビジネスの記事】

財務省が発表した21年度見通しの国民負担率は44.3%。国民負担率は、国民の支払う国税と地方税の合計である租税負担と、年金や社会保険料などの社会保障負担の合計が国民所得に占める割合を示すものだ。

これに財政赤字を加えたのが「潜在的な国民負担率」で21年度見通しは56.6%となっている。すでに我々は所得の半分以上は国に取り上げられている。これ以上の搾取は許されるものではない。

否定派が主張するように、たしかに財政破綻の兆候はないかもしれない。だが、財政健全化への取り組みは、将来に対するリスク・マネジメントという側面においては重要である。

そして何よりも大切なのは、将来世代が希望する社会政策を行おうとした時に、国債の償還負担が足かせとなって、使える財政資金に大きな制約がかかってしまうのを防ぐことだ

後顧の憂いはやはり残してはいけないのだ。


◎結局「財政破綻」の「シナリオ」はなし?

最後まで記事を読んでも「財政破綻」という「シナリオ」が「現実味を帯びる」感じはない。政府・日銀が日本円を創出する能力に限界はないという基本的な認識が鷲尾氏には欠けているのだろう。なので「使える日本円は限られる」と考えてしまうのではないか。

今のうちに「財政健全化」を進めておかないと「将来世代が希望する社会政策を行おうとした時に、国債の償還負担が足かせとなって、使える財政資金に大きな制約がかかってしまう」と信じているようだ。

しかし「国債の償還負担が足かせ」となることはない。家計であれば、借金に頼った生活を続けていると返済負担が重荷になって、使える「資金に大きな制約がかかってしまう」。しかし政府・日銀は家計とは根本的に異なる。無から「資金」を生み出せるし、その金額は無限だ。

そこに気付けば鷲尾氏の認識も変わるのではないか。「財政破綻」の「シナリオ」に「現実味」があるかどうか、もう一度よく考えてほしい。


※今回取り上げた記事「日本は本当に『財政破綻』しない…?現実味を帯びる『金利上昇』で待ち受ける最悪のシナリオ

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/86556?imp=0


※記事の評価はE(大いに問題あり)

2021年8月23日月曜日

人口減少のプラス面に言及したのは評価できる日経1面連載「人口と世界」

人口と為替相場は似たところがある。2つとも、上下どちらに動くのが好ましいか単純には決められない。なのに日本経済新聞は「円高と人口減少は好ましくない」との前提で記事を書く場合が多い。しかし23日の日本経済新聞朝刊1面に載った「人口と世界 成長神話の先に(1)人類史、迫る初の人口減少 繁栄の方程式問い直す」という記事では「人口」に関して評価すべき変化が見えた。もちろん問題点もあるのだが、ここではプラス面に光を当ててみたい。

夕暮れ時の桂川

【日経の記事】

1800年に約10億人だった世界人口はいまや78億人。人口が爆発的に増えたのは人類史で直近の200年間だけだ。急膨張した人類は、破綻を危ぶんだ。ローマクラブは1972年、人口増と環境汚染で100年以内に「成長の限界」を迎えると警告した。

流れを変えたのは女性の教育と社会進出が加速したことによる出生率の低下だ。女性1人が生涯に産む子供の数(合計特殊出生率)は17年現在で2.4と、人口が増えなくなる2.1の目前だ。

人口減時代は新たな難題が待つ。人口増が前提の年金や社会保障制度は転換を迫られる。労働者が減れば過去の経済成長モデルは通用しない。

ただ見方を変えれば、人口爆発の副産物だった環境問題や資源枯渇の危機は和らぐかもしれない。雇用を奪うとの抵抗もある人工知能(AI)などのデジタル技術は、生産性を引き上げ労働力不足を補う武器になる。

いち早く人口減に突入した日本にとっても改革のチャンスだ。従来の発想を捨て、人口減でも持続成長できる社会に大胆につくり変えられるか。歴史人口学者の鬼頭宏前静岡県立大学長は予言する。「次の文明システムへの転換期。乗り切るか没落するかの分かれ目だ」


◎人口をどう考えるべきか

見方を変えれば、人口爆発の副産物だった環境問題や資源枯渇の危機は和らぐかもしれない」という記述に希望を感じた。「人口が減ると経済成長が難しくなる。何とか食い止めなければ…」という視点だけで考えていないのが分かる。

今回の連載に関しては「川合智之、山田宏逸、星正道、早川麗、鈴木壮太郎、柳瀬和央、張勇祥、中村裕、覧具雄人、天野由輝子、村松洋兵、大西智也、松井基一、川手伊織、松尾洋平、小川知世、木寺もも子、竹内弘文、新田祐司、島本雄太、杉浦恵里、北川開、今出川リアノン、鎌田健一郎、北爪匡、渡辺健太郎、桑山昌代、合田義孝、松田崇、鈴木泰介、勝野杏美、湯沢華織が担当します」と出ていた。

この中の誰が「人口減少にはプラス面もある」と感じているのかは分からない。できれば全員にこの視点を持ってほしい。人口減少のマイナス面も当然ある。大事なのは総合的に物事を分析することだ。人口問題に関して日経はそこが欠けていた。今回の連載を機に変わってほしい。

もう1つ好ましい変化の兆しを感じた。「女性の教育と社会進出が加速したことによる出生率の低下」という記述だ。総合・政治面の関連記事でも「女性1人が生涯に産む子供の数を示す合計特殊出生率は、発展途上地域で1950年代前半の6から2010年代後半に2.6まで急減した。女性の教育と社会進出が進んだのが要因とされ、多産を望む若者が減った」「少子化は一人ひとりの人生の選択が積み重なった結果で、押し戻すのに成功した国はほぼない」と述べている。

この認識は基本的に正しい。「北欧などを見習って社会を進歩的な方向に変えていけば少子化対策になる」などと主張しがちな日経だが今回は違うようだ。

出生率の低下」を「女性の教育と社会進出が進んだのが要因」としてしまうのは女性問題を扱う筆者の多くにとって都合が悪い。こうした書き手は「女性の社会進出を支援すべきだ。そうしないと出生率は上向かない」と訴えたがる傾向がある。しかし、そうした主張に説得力はない。

今回の連載では「少子化は一人ひとりの人生の選択が積み重なった結果で、押し戻すのに成功した国はほぼない」と現実を受け入れた上で「人口減」を前提に主張を組み立てようとしている。

それでいい。2回目以降の記事に期待したい。


※今回取り上げた記事「人口と世界 成長神話の先に(1)人類史、迫る初の人口減少 繁栄の方程式問い直す」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA021H00S1A600C2000000/


※記事の評価はC(平均的)

2021年8月21日土曜日

価値観の押し付けが凄い日経ビジネス「あなたの隣のジェンダー革命」

日経ビジネス8月23日号の特集「あなたの隣のジェンダー革命」には色々と問題を感じた。冒頭で筆者ら(大西綾記者、吉野次郎記者、藤原明穂記者)は「求められるのは性別役割分担意識を払拭し、多様な価値観を認めるジェンダー革命」と訴える。「性別役割分担」を是とする「価値観」を否定する一方で「多様な価値観を認める」よう求めている。かなり苦しい。結局は自分たちの「価値観」を読者に押し付けているだけではないか。

夕暮れ時の筑後川

PART1 男女平等指数で世界120位の惨状~『夫に養ってもらえ』が女性を貧困に陥れる」という記事の中身を見ながら、さらに問題点を指摘していく。

まず「ジェンダーギャップ指数」を「男女平等指数」と訳すのが誤解を招く。「男女格差指数」とすべきだろう。ちなみに全く別で「ジェンダー不平等指数」もあり、男女共同参画局のホームページによると「国家の人間開発の達成が男女の不平等によってどの程度妨げられているかを明らかにするもの」らしい。「男女平等指数」を読者に示したいのならば、こちらを使うべきだろう。この指数で日本は2018年に162か国中23位(上位の方が不平等が小さい)となっている。本当に「惨状」と呼ぶべき状況なのか。

今回の記事では「女性の経済的自立が進まず、貧困と自殺が深刻化している。『夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ』との価値観が招いた悲劇だ。経済界・労働界・行政に残る因習を一掃せねばならない」と訴える。しかし、この主張には無理がある。記事の一部を見ていこう。


【日経ビジネスの記事】

日本の性別役割分担意識は欧州諸国と比べても強い。内閣府が20~21年に実施した「少子化社会に関する国際意識調査」によると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に「反対」する日本人の割合は56.9%だった(「どちらかといえば反対」を含む)。過半数に達しており、一見すると反対者は多いように見える。だが、同時に調査したドイツの63.5%、フランスの75.7%、スウェーデンの95.3%を下回っており、日本は最低の水準だ。

日本人男性に限っても、形の上では性別役割分担の反対者は54.9%と過半数に上る。では実際に日本人男性が反対の立場を実行に移しているかというと、それはまた別の話である。

夫と妻で家事・育児に費やす時間を比べた場合、日本は夫の方が圧倒的に短く、妻にほぼ任せっきり。性別役割分担に反対するポーズを見せる日本人男性にとっての「不都合な真実」だ。


◎どこが「不都合な真実」?

『夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである』という考え方に『反対』」している男性が「家事・育児」を「妻にほぼ任せっきり」にしているとしよう。これは「不都合な真実」と言えるだろうか。結論から言うと明らかに違う。

反対」しているのは「~べきである」という「考え方」に関してだ。「夫は外で働き、妻は家庭を守る」という個別の選択を好ましくないと言っている訳ではない。

別の例で考えてみよう。100人の女性に「女性は長髪であるべきだとの考えに賛成か」と聞いたら、全員が「反対」と答えたとする。しかし、その時の髪形を見ると60人が長髪だった。この場合、60人の女性にとって長髪であることは「不都合な真実」なのか。「必ず長髪であるべきだとは思わないが、長髪を好む女性が長髪を選ぶのは問題ない」となるのではないか。

さらに記事を見ていこう。

【日経ビジネスの記事】

極端な性別役割分担意識が女性たちの生き方を制限しているとすれば、憲法でうたう男女平等の理念に反する。また高度成長期と違って現在は労働力人口が減っている。労働力不足が続く中で、企業社会で活躍したくてもできない女性たちを生み出している現状は、日本経済にとってもマイナスだ。それにもかかわらず経済界、労働界、行政には今なお性別役割分担意識が強く残る。


◎「極端な性別役割分担意識」がある?

極端な性別役割分担意識が女性たちの生き方を制限しているとすれば、憲法でうたう男女平等の理念に反する」と言い切っているが、そうだろうか。まず「極端な性別役割分担意識」があるのか。「『夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである』という考え方に『反対』する日本人の割合は56.9%だった」と記事でも説明していたはずだ。「反対」がほぼゼロなら「極端な性別役割分担意識」があると言ってもいい。しかし、そうはなっていない。

百歩譲って「極端な性別役割分担意識」があるとしよう。だからと言って「憲法でうたう男女平等の理念に反する」とは感じない。憲法24条では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と定めている。「性別役割分担意識」があったとしても「相互の協力により、維持され」ていれば問題はないはずだ。

「夫が狩りをして食材を確保し、妻がその食材で料理を作るべきだ」という「性別役割分担意識」を持つ夫婦が、それを実行に移して「相互の協力」により生活を「維持」しているとしよう。この夫婦は「憲法でうたう男女平等の理念に反する」存在なのか。少し考えれば分かるはずだ。分業も「相互の協力」の1つの形だ。

さらに記事を見ていく。筆者らによる価値観の押し付けが顕著に出てくる部分だ。


【日経ビジネスの記事】

さらには肝心の日本人女性の多くが、外で働く夫に収入を頼り、自らは家庭を守る存在になることを望んでいる。これは女性たちにとっての「不都合な真実」だろう

内閣府が14~15年に実施した「結婚・家族形成に関する意識調査」で、結婚を望む20~30代の未婚者に「結婚相手に求める条件」を聞いている。それによると、結婚相手に「経済力があること」を挙げた男性が7.5%にとどまったのに対して、女性は52.5%にも上った。

また結婚後に「夫が家計の担い手になる」のが理想と答えた20~30代の女性の割合は、未婚・既婚を合わせて68.4%に達した(「どちらかというと夫が担い手になる」を含む)。

経済学者の森口千晶・一橋大学教授は、「夫の経済力に頼って暮らしていると、離婚して独身に戻ったときに貧困に陥りかねない。離婚時のリスクが極めて高いのが性別役割分担のワナだ」と解説する。

それでも日本人女性の多くは経済的な自立よりも、自らが家庭の守り手になることに強いこだわりがありそうだ。

内閣府が20~21年に、子を持つ女性に対する調査で、自分自身の育児負担を減らすために民間のベビーシッターや家事支援サービスを利用することへの意識を聞いたところ、日本人女性の62.9%が「抵抗あり」とした(「抵抗が大いにある」「抵抗が少しある」の合計。「少子化社会に関する国際意識調査」から)。同時に調査したスウェーデンの43.3%、ドイツの33.2%、フランスの26.0%を大きく上回り、最も強い抵抗感を示した。

家事や育児を業者に代行させれば、女性は家の外で活動しやすくなる。だが「家事や育児をサボっている」との罪悪感が勝るのかもしれない。「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方は日本人女性にも広く刷り込まれている。


◎なぜ自分たちの価値観を押し付ける?

日本人女性の多くが、外で働く夫に収入を頼り、自らは家庭を守る存在になることを望んでいる」としても「女性たちにとっての『不都合な真実』」とは言えない。なぜ「不都合な真実」と言っているのか明確になっていないが「『夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである』という考え方に『反対』」という立場との整合性を問題にしているのならば、男性と同じ理由で矛盾はない。

べきである」には「反対」だが、個人としては「夫は外で働き、妻は家庭を守る」パターンで行きたいという考えは十分に成り立つ。

日本人女性の多くは経済的な自立よりも、自らが家庭の守り手になることに強いこだわりがありそうだ」としたら、それはそれでいいではないか。「多様な価値観を認める」社会の実現を望むならば、なおさらだ。

夫の経済力に頼って暮らしていると、離婚して独身に戻ったときに貧困に陥りかねない。離婚時のリスクが極めて高い」としても、だからと言って「夫の経済力に頼って暮ら」す生き方を否定すべきではない。各人の自由だ。

なぜ筆者らは個人の生き方に関して自分たちの価値観を押し付けたがるのか。「夫の経済力に頼って暮ら」すことに本人が高い価値を見出しているならば「離婚時のリスク」の高さは正当化できる。

さらに見ていこう。


【日経ビジネス】

日本は女性が家庭の外で活躍するのが難しい社会なので、女性が自らの役割を家庭内に制限しているのか、あるいはその逆か。これは「鶏が先か、卵が先か」の議論であり、答えはない。

とはいえ社会が先に変わらねば、大勢の女性を性別役割分担のくびきから解き放つことはできない。先に変わるべきは経済界、労働界、行政だ。そうでないと「女性の活躍を推進する」という各界のアピールはむなしいだけだ。


◎「女性が家庭の外で活躍する」のは難しい?

上記のくだりはツッコミどころが多い。

まず「日本は女性が家庭の外で活躍するのが難しい社会」なのか。大西綾記者と藤原明穂記者(名前から女性と推測)はどうなのか。「家庭の外で活躍するのが難しい社会」なのに、自分たちも含めて「家庭の外で活躍する」女性がやたら多いとは感じないのか。

テレビでニュース番組を見てもいい。そこに「家庭の外で活躍する」女性キャスターを見つけるのは至難なのか。五輪を振り返る手もある。女性アスリートの「活躍」はほとんどなかったのか。

社会が先に変わらねば、大勢の女性を性別役割分担のくびきから解き放つことはできない」という見方にも賛成できない。「性別役割分担のくびき」などあるのか。「日本人女性の多くが、外で働く夫に収入を頼り、自らは家庭を守る存在になることを望んでいる」のならば「くびき」はない。自発的な「性別役割分担」だ。

大勢の女性」が自らの意思に反して「性別役割分担」を強制されているのならば「くびきから解き放つ」べきだ。しかし、そういう状況ではないと記事でも説明している。

仮に「大勢の女性を性別役割分担のくびきから解き放つ」べきだとしても、なぜ「社会が先に変わらねば」ならないのか謎だ。「経済界、労働界、行政」が「先に」変わっても、女性が相変わらず「働く夫に収入を頼り、自らは家庭を守る存在になることを望んでいる」のならば「性別役割分担」に大きな変化は起きないだろう。「性別役割分担」を強制的にやめさせる方向に「経済界、労働界、行政」が変わるのならば別だが…。

最後に女性の「活躍」に関する説明にも注文を付けておきたい。


【日経ビジネスの記事】

結果的に日本では社会で活躍する女性が極めて少ない。国際労働機関(ILO)によると日本の女性管理職の比率は11.1%で、調査した108カ国中96位。内閣府によると研究者に占める女性の比率は16.9%で欧米アジアなどの39カ国の中で最下位。列国議会同盟(IPU)によると日本の女性国会議員の比率は9.9%で、187カ国中164位だ。

女性の社会進出が遅れた結果、世界経済フォーラムが発表した2021年版の「ジェンダーギャップ指数」で日本は156カ国中120位だった。「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に、日本人はいつまで固執するのだろうか。


◎「社会で活躍する女性が極めて少ない」?

社会で活躍」しているかどうかの指標として「女性管理職の比率」を使うのは賛成しない。「平社員やパート・アルバイトは活躍していない」との偏見を感じるからだ。「活躍」の定義にもよるが、職場では「管理職」だけが「活躍」している訳ではない。

日経ビジネスの編集部を見渡せば分かるはずだ。「活躍」しているのは編集長などの「管理職」だけなのか。

研究者」「国会議員」の比率を取り出すのも感心しない。このやり方でよければ「日本では社会で活躍する男性が極めて少ない」という話も簡単に作れる。例えば、看護師や保育士は男性比率が1割未満とされる。この事実は「日本では社会で活躍する男性が極めて少ない」ことを裏付けているだろうか。誰でも違うと分かるはずだ。特定の職業を取り出して論じても意味がない。全体を見る必要がある。

研究者」や「国会議員」として「活躍」する女性は少なくても、看護師や保育士として「活躍」する女性は多い。なのに「日本では社会で活躍する女性が極めて少ない」と見るべきなのか。

「看護師や保育士なんて『活躍』には入らない」と筆者らは思っているのかもしれない。しかし、どちらも大切な仕事だ。それを「活躍」から除外するとしたら「社会で活躍する」とは一体どういうことを指すのだろう。


※今回取り上げた記事「PART1 男女平等指数で世界120位の惨状~『夫に養ってもらえ』が女性を貧困に陥れる

https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/special/00871/


※記事の評価はD(問題あり)。大西綾記者への評価はDを維持する。吉野次郎記者への評価はC(平均的)からDへ引き下げる。藤原明穂記者への評価は暫定でDとする。


※大西記者に関しては以下の投稿も参照してほしい。

「EVバブル」に無理がある日経ビジネス大西綾記者「時事深層」https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/10/ev.html

野田聖子氏の男性蔑視は気にならない? 日経ビジネス 大西綾記者に問うhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2021/02/blog-post_10.html


※吉野記者に関しては以下の投稿も参照してほしい。

GAFAが個人情報を独占? 日経ビジネス吉野次郎記者に問う
https://kagehidehiko.blogspot.com/2018/06/gafa.html

日経ビジネス吉野次郎記者は「投げ銭型ライブ」を持ち上げるが…
https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/09/blog-post_21.html

日経ビジネス「東大の力~日本を救えるか」に感じた物足りなさhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2020/06/blog-post_6.html

2021年8月20日金曜日

日経でのクオータ制導入論に説得力欠くウプサラ大学の奥山陽子助教授

性別に基づくクオータ制」の導入論は常に説得力がない。まず「導入したい」という気持ちが先にあって、後付けで「クオータ制」のメリットを探しているからだろう。どうしても強引に「素晴らしいものだ」と訴えてしまう。20日の日本経済新聞朝刊に経済教室面にウプサラ大学助教授の奥山陽子氏が書いた「経済教室~民主主義の未来(下)男女均衡参加、再生への鍵」という記事もそうだ。

アオサギ

中身を見ながら問題点を指摘したい。まずは「女性議員比率を押し上げる」効果について奥山氏の解説を見ていこう。


【日経の記事】

特に北京女性会議の頃から、各国で女性議員比率を押し上げる政策が目覚ましい。議員の候補者や議席の一定比率を男女それぞれに割り当てる「性別に基づくクオータ制」の導入などだ。こうした野心的な取り組みは影響への関心を呼ぶ。

政治経済学はその関心に答えようとする。女性比率が急上昇した四半世紀を実験室に見立て、「男女が均衡すると政策や経済はどうなるのか」という因果関係を検証してきた。以下では「民主主義は、全市民が参加するときに最もうまく機能する」ことの政治経済学的意味をひもといていく。

まず議員に占める女性比率の上昇は、政府予算配分上の優先順位を変えるという研究結果がある

インドでは93年、無作為に選ばれた村議会で、議長は女性でなければならないとされた。この実験的な政策について女性議員の因果効果を調べる好機ととらえたのが、エステル・デュフロ米マサチューセッツ工科大(MIT)教授らだ。

女性議長を選出した村では、とりわけ飲料水の確保により多くの村予算が割かれたことを明らかにした。日ごろ飲み水の確保を担うのは主に女性だ。「現場の声」が村政に届きやすくなることで、村民の健康や命の問題に関わる懸案が改善されたのである。


◎話が違うような…

議員に占める女性比率の上昇は、政府予算配分上の優先順位を変えるという研究結果がある」と奥山氏は言うが、そういう話になっていない。

議長は女性でなければならない」としても、それで「議員に占める女性比率の上昇」が起きる訳ではない。「議員」が全員男性の場合は追加で女性議員を入れるのかもしれないが、そうした説明はない。選ばれた「議員」の中から女性を「議長」にするだけならば「議員に占める女性比率」には影響しない。

政府予算配分上の優先順位を変える」という事例にもなっていない。出てくるのは「村予算」の話だ。

さらに言えば、「議長」が女性だと「飲料水の確保により多くの村予算が割かれ」るとしても、それが好ましいとは限らない。常識的に考えれば「議長」は中立の立場で議会を運営するはずだ。「議長」の力で「村予算」の配分が変わってしまうのならば、制度的には問題がある。

また「飲料水の確保により多くの村予算が割かれ」たことを前向きに評価すべきかどうかも微妙だ。代わりにもっと重要な「予算」が削られているかもしれない。

続きを見ていこう。


【日経の記事】

またフランス議会を対象とした実証研究によると、女性議員の増加は議会でどんな立法活動が行われるかにも影響するという。仏政府が00年に候補者の男女均等を義務付けるパリテ法を制定して以降、女性の参画が急速に進んだ。

その実効性を検証するためクウェンティン・リップマン英エセックス大助教授は、議員が01~17年に提出した約30万件の法案修正案のテキストを分析した。女性議員は男女平等を実現するための諸法案、男性議員は軍事関連法案に関して、それぞれ修正案をより多く提出していたことを明らかにした。立法過程で多様な論点を網羅するには、男女バランスのとれた議会が不可欠なことを示唆する


◎「パリテ法」は足かせでは?

フランス」が抱える問題は「軍事」(男性が得意)と「男女平等」(女性が得意)しかないと仮定しよう。この場合「候補者の男女均等を義務付けるパリテ法」は有効だろうか。常に2つの問題の重みが変わらないなら有効かもしれない。しかし実際は状況変化が起きる。

軍事」に詳しい議員が多く必要な状況になった時に「パリテ法」は足かせになる。では、その状況判断は誰がすればいいのだろうか。最も簡単で公正なのは有権者の自由意思による投票に委ねることだ。

今は「軍事」より「男女平等」が大事だと思う有権者が多ければ、自然と女性議員が増える。その調整機能を「パリテ法」は奪ってしまう。やはり好ましくない。

立法過程で多様な論点を網羅するには、男女バランスのとれた議会が不可欠」とは言えない。女性比率が10%だとしても女性議員はいるのだから「男女平等」の「論点」を提供することは簡単にできる。10%の少数派では女性議員は沈黙してしまうというのならば、そもそもそういう人物は議員に向いていない。

さらに見ていく。


【日経の記事】

次に男女均等の推進は、経済成長にマイナスかプラスか。ソニア・バロトラ英ウォーリック大教授らが取り組むインドの州議会選挙の4265小選挙区に関する研究は注目に値する。

人工衛星画像を活用して92~12年の夜の明るさを計測し、各区の経済成長の指標とした。女性議員を選出した区では、年平均成長率が高かった。それらの地区では、経済成長に必要とみられる公共財の供給量、特に道路建設事業の完了率が高かったという。社会の隅々に必要な資源を行き渡らせることで、経済成長につながった可能性は高い


◎色々と問題が…

これは「女性議員」を選出するデメリットを示しているのではないか。「女性議員を選出した区」では「公共財の供給量」が増えて「成長率が高かった」らしい。「公共財の供給量」が増えたのは「女性議員」の政治力だとしよう。一方、男性議員は自分の選挙区への利益誘導を避けて「」全体の利益になるよう活動している。なので地元の「公共財の供給量」は「女性議員」ほどには増えない。

こういう状況だとすると「女性議員」が増えるのは好ましいだろうか。記事の説明通りなら、この「研究」は「女性議員」が「社会の隅々に必要な資源を行き渡らせ」てくれる存在ではないと示している。むしろ逆で「女性議員を選出した区」に優先して「資源を行き渡らせ」てしまう。

さらに記事を見ていこう。いよいよクオータ制に話が移っていく。


【日経の記事】

こうした前向きな研究結果が蓄積されても「女性を意図的に増やすという介入は、選挙という競争をゆがませ、実力なき政治家を生む」という懸念は絶えない。

だがその懸念はスウェーデンの行政データを用いた実証研究により反証されている。英国・スウェーデンの研究チームが分析対象としたのは、70年代以降各政党が自主的にクオータ制を導入したスウェーデンだ。

93年、社会民主労働党は市議会議員選挙で、ジッパー方式のクオータ制を導入した。ジッパー方式とは、比例代表制の候補者リストに男女を交互に配するものだ。導入後、男女議員比率は均等になる。導入前に女性比率が少ない市ほど影響を強く受け、実力のない女性議員が急増するという反対の声もあったという。

だが研究チームが、当選議員の稼得能力や前職、学歴などに基づき「実力指標」を作成したところ、クオータ制の影響の大小は、女性議員の平均的な実力に影響しないことが示された。

この実証研究はさらに思わぬ発見をもたらした。クオータ制が実力の高い男性議員の誕生を促したというのだ。クオータ制の影響が強い市ほど、当選する男性の平均実力が上昇したという。研究チームは、この背後に候補者選定過程の変化をみる。クオータ制導入前、優秀な党員は、実力が必ずしも高くない党の地方幹部から、地位を脅かすとして疎んじられていたようだ。

だがクオータ制導入後、限られた男性議席をなれ合いで埋めていては、有権者の支持を十分に得られない恐れが生じた。よって優秀な男性候補者も高順位に登用されるようになった。すなわちクオータ制があしき慣例に風穴を空ける可能性もある。これもまた一つ、全市民に参加の機会が与えられた時に、議会制民主主義が最もうまく機能することの証しではないか。


◎やはりクオータ制に意味はない

まず「稼得能力や前職、学歴」で「実力」を測るのが適切なのか疑問だ。「女性を意図的に増やすという介入は、選挙という競争をゆがませ、実力なき政治家を生む」との懸念は自分も持っている。ただ「政治家」の「実力」を「稼得能力や前職、学歴」では見ていない。

政治家」の「実力」を点数化するのは至難だ。有権者に評価させても適切な指標にはならないだろう。なので「クオータ制が実力の高い男性議員の誕生を促した」かどうかは基本的に判定不能と思える。

とりあえずは、「クオータ制」を導入すると「稼得能力や前職、学歴」の面で上位の「男性議員」が増えるとしよう。だから「クオータ制」を導入すべきとなるだろうか。「稼得能力や前職、学歴」で見た「実力」が上の「議員」を増やしたいのならば、ここで言う「実力の高い」人々への「クオータ制」にした方が簡単だ。

実力指標」で上位10%に入る人々に90%の議席を割り当てるといった「クオータ制」はどうだろう。もちろん自分は賛成しないが…。

この「実証研究」については「各政党が自主的にクオータ制を導入したスウェーデン」を対象にしていることにも注意が必要だ。「各政党が自主的にクオータ制を導入」するのは何の問題もない。「各政党」の自由だ。歪みが生じるのは公的な選挙制度としての「クオータ制」だ。その問題点は「スウェーデン」からは学べない。

クオータ制があしき慣例に風穴を空ける可能性もある」とは言えるだろうが、そうならない「可能性もある」。「スウェーデン」の事例だけでは何とも言えない。

性別に基づくクオータ制」が国民にとって大きな利益をもたらすのならば、明らかな性差別である「クオータ制」を受け入れてもいい。だが、自分が知る限りでは「クオータ制」導入論者の誰もそうしたメリットを示してくれない。

だとしたら男女平等の原則堅持でいい。結論はやはり同じだ。


※今回取り上げた記事「経済教室~民主主義の未来(下)男女均衡参加、再生への鍵」https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210820&ng=DGKKZO74922790Z10C21A8KE8000


※記事の評価はE(大いに問題あり)

何があってもやっぱり「日米同盟強化」? 日経 甲原潤之介記者「アフガンの蹉跌(下)」

20日の日本経済新聞朝刊1面に安全保障エディターの甲原潤之介記者が書いた「アフガンの蹉跌 試練の世界秩序(下)米国頼みに綻び~『自力対応』迫られる日本」という記事は期待外れの内容だった。「『自力対応』迫られる日本」という見出しを見た時は米国依存の脱却を訴えるのかと感じたが、相変わらず念仏のように日米同盟強化を訴えている。記事の終盤を見ていこう。

夕暮れ時の耳納連山

【日経の記事】

「アフガンは明日の台湾だ!」。一部の中国メディアは撤退する米国の姿勢をやゆし、中国が武力統一へ動けば台湾は自力に頼るしかないと書き立てた。

米軍のアフガン撤退は対中シフトの一環で、北東アジアから退くわけではない。それでも中国の軍備増強が進めば米国の影響力は相対的に低下していく。

バイデン米大統領は14日の声明で「アフガン軍が自国を守れない、もしくは守る意思がなければ米軍が駐留しても意味がない」と述べた。自民党内には「米軍任せだったアフガンを日本に置き換えたらどうなるか」との問題提起がある。

日本の安保政策は引き続き米国との同盟強化が機軸となる。そのうえで憲法が掲げる平和主義を守りつつ、邦人保護や領土防衛へ米国に頼らず自力でできることはなにか。米国の蹉跌(さてつ)は日本にも必要な備えを迫る。


◎思考停止に陥っていないか?

自民党内には『米軍任せだったアフガンを日本に置き換えたらどうなるか』との問題提起がある」と甲原記者自身が書いている。誰でも思うことだ。なのに「日本に置き換えたらどうなるか」をまともに論じていない。

今回の「アフガン」の件は、本当に「米国との同盟強化」を唱えていればいいのかを日経に問うている。それに対する答えが「日本の安保政策は引き続き米国との同盟強化が機軸となる」でもいい。ただ、なぜそうなるのかの根拠は欲しい。

日本は米国の存在を前提に安全保障政策を組み立ててきた」と甲原記者も書いている。その「前提」が揺らぐ事態が起きているのに、理由も示さず「引き続き米国との同盟強化が機軸となる」と言われても説得力は感じない。

そして「憲法が掲げる平和主義を守りつつ、邦人保護や領土防衛へ米国に頼らず自力でできることはなにか。米国の蹉跌は日本にも必要な備えを迫る」と記事を締めている。結局、具体論には入っていない。

「大変なことになった。日本も色々考えなきゃ」程度のことなら誰でも言える。「安全保障エディター」というそれらしい肩書を付けているならば、もう少し具体的な提言ができないものか。

個人的には「米軍基地の撤退→自主防衛」へと進むべきだと思う。日米同盟は在日米軍基地がない状態で存続させる。米国が「基地撤退なら日米安保破棄」と脅してくるなら、その時は同盟解消でいい。アフガニスタンでの米国の敗北を見て「でも日本のことは責任を持って守ってくれるだろう」と信じる方がおかしい。

「自主防衛など無理」と思い込んでいる人には問いたい。ベトナムはなぜ独立を保てているのか。中国とは地続きで国力も日本より劣る。米国の同盟国でもない。中国の属国になっている訳でもない。

日本はベトナムより人口も経済規模も大きいし何より島国だ。自主防衛が不可能と考える方がどうかしている。

甲原記者は「安全保障エディター」としてこうした主張にどう反論するだろうか。そこをまずは考えてほしい。


※今回取り上げた記事「アフガンの蹉跌 試練の世界秩序(下)米国頼みに綻び~『自力対応』迫られる日本

https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210820&ng=DGKKZO74951000Q1A820C2MM8000


※記事の評価はD(問題あり)。甲原潤之介記者への評価はDを据え置く。甲原記者に関しては以下の投稿も参照してほしい。

日経 甲原潤之介記者は「非核化の歴史3勝3敗」と言うが…https://kagehidehiko.blogspot.com/2018/07/33.html

どうなったら「世界分裂」? 日経 甲原潤之介記者に問うhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2019/08/blog-post_25.html

日経 甲原潤之介記者の見立て通りなら在日米軍は要らないような…https://kagehidehiko.blogspot.com/2021/04/blog-post_20.html

2021年8月19日木曜日

Newsweek日本版のワクチン強制論が見落としていること

新型コロナウイルスに対する恐怖心が高まると賢い人も冷静な判断ができなくなるということか。米プリンストン大学生命倫理学教授のピーター・シンガー氏が18日付で書いた「ワクチン接種は自由の侵害にならない、『個人の選択』ではなく強制すべき」というNewsweek日本版の記事は問題が多かった。

室見川

強制すべき」とシンガー氏が考える根拠を見ていこう。

【Newsweekの記事】

コロナ禍では、ワクチン接種の義務化がミルの説く自由の原則を侵すことはない。ワクチン未接種のオリンピック選手は他者に感染リスクを負わせる。「個人の選択」だと言ったエリソンはワクチンを接種するか、でなければ自宅にいるべきだった。IOC(国際オリンピック委員会)が、競技に参加できるのは接種した選手のみだと言っていたら、多くのアスリートを感染リスクから救っていただろう。


◎接種すればリスクは消える?

ここで言う「ミルの説く自由の原則」とは「その人の意思に反して正当に権力を行使し得る唯一の目的は、他人に対する危害の防止」というものだ。「他者に感染リスクを負わせる」ことをシンガー氏は「他人に対する危害」と判断しているのだろう。賛成はしないが、とりあえず受け入れてみる。

この場合、そもそも「オリンピック」は開催できない。「接種した選手」であっても「他者に感染リスクを負わせる」からだ。「他人に対する危害」になってしまう。

ワクチン」が完璧なものだとでもシンガー氏は思っているのか。シンガー氏の理屈を「オリンピック」に当てはめるならば、全ての「アスリート」が「自宅にいるべきだった」。「競技に参加」しても「他者に感染リスクを負わせる」可能性がなくなるような技術が開発されるまでその状況は続く。

ワクチン未接種のオリンピック選手は他者に感染リスクを負わせる」のはその通りだが「ワクチン接種のオリンピック選手は他者に感染リスクを負わせない」とは言えない。そこをシンガー氏は理解していないようだ。

では「ワクチン」によって「他者」への「感染リスク」をゼロにできるならば「強制すべき」だろうか。「ワクチン」のリスクがゼロならば賛成できなくもない。

しかし「ワクチン」のリスクはゼロではない。接種すれば「他者」への「感染リスク」がゼロになるものの1万人に1人の確率で副反応による死者が出る「ワクチン」が開発されたとしよう。これを強制とする。日本で言えば1000人以上が「ワクチン」によって命を奪われることになる。このうち100人が接種を嫌がっていたとする。

この時に「死んだ(殺された?)100人には申し訳ないけどワクチンの強制っていいことだな」と思えるだろうか。「ワクチン」接種によって1万人の命が救われたのならば、救われた命の方が多いのだから強制も良しとなるのか。

ワクチン」に関しては、強制によって「自由」だけでなく人の命を奪う可能性を秘めている。そのことにシンガー氏は思いが至っていない。そこが残念だ。


※今回取り上げた記事「ワクチン接種は自由の侵害にならない、『個人の選択』ではなく強制すべき

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/08/post-96926_1.php


※記事の評価はD(問題あり)

2021年8月18日水曜日

米国の敗因分析に不満残る日経「アフガンの蹉跌 試練の世界秩序(上)」

18日の日本経済新聞朝刊1面に載った「アフガンの蹉跌 試練の世界秩序(上)民主主義、繁栄もたらせず~タリバン復権招いた米国」という記事は悪い出来ではない。「ブリンケン米国務長官が『これはサイゴンとは異なる』と否定しようと、1975年のベトナム戦争終結に重ねざるを得ない歴史となった」と米国の敗北を直視している点は評価できる。ただ、気になる点が2つある。

夕暮れ時の筑後川

第一は米国の敗因についてだ。記事では「米世論が兵士と血税を投入し続けることを許さない中、20年かけても民主主義の豊かさをもたらせなかったことが敗因だ」と述べているだけで、軍事的な問題に触れていない。

民主主義の豊かさをもたらせなかった」としても、米国が圧倒的な軍事力でタリバンを一掃していれば、今回のような事態には至らなかった。長い年月をかけて「兵士と血税を投入し続け」てもタリバンの根絶ができなかったのはなぜか。米国の弱さとタリバンの強さを軍事的な面から分析してほしかった。

第二は「民主主義」の敗北と捉えている点だ。記事の終盤を見てみよう。


【日経の記事】

しかし世界の民主化への流れは逆回転を始めている。

2010年代前半に中東地域で広がった「アラブの春」の民主化運動は多くの国で頓挫し、唯一の成功例とされたチュニジアでも経済低迷から政治不信が高まっている。

米国が21年中に駐留米軍の戦闘任務を終わらせる方針を示すイラクも豊かさを享受できていない。世銀によると、同国の米ドル建ての名目国内総生産(GDP)は13年をピークに低下している。

欧州連合(EU)内では、かつて共産国だったハンガリーのオルバン首相が強権体制を強める。直近ではLGBT(性的少数者)への差別的な政策を打ち出し、域内で摩擦を生んでいる。背景にはドイツやフランスとの経済格差が埋まらない不満がある。

アフガンでの米国の蹉跌(さてつ)は、民主主義が抱えている負の側面を映し出した。イスラム過激派を生んだ貧困や富の偏在、不公正などの土壌はそのまま残っている。民主主義陣営が問題を解決できなければ、大きな禍根を残すことになる


◎「民主主義」の問題?

岐部秀光記者と馬場燃記者は今回の件を「民主主義が抱えている負の側面を映し出した」ものと捉えているようだ。この見方には賛成できない。米国介入主義の敗北と見るべきだろう。「民主主義」はあらゆる問題を解決してくれる魔法の杖ではない。筆者らは「民主主義」に多くを期待し過ぎている気がする。


※今回取り上げた記事「アフガンの蹉跌 試練の世界秩序(上)民主主義、繁栄もたらせず~タリバン復権招いた米国」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB152BM0V10C21A8000000/


※記事の評価はC(平均的)。岐部秀光記者への評価はD(問題あり)からCへ引き上げる。馬場燃記者への評価はCを維持する。岐部記者に関しては以下の投稿も参照してほしい。

エルサレムは「アジアから縁遠い」? 日経 岐部秀光記者に問うhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2017/12/blog-post_7.html

中東への「第2波」はまだ「懸念」だと日経 岐部秀光記者は言うが…https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/06/2.html

2021年8月17日火曜日

米国の責任をなぜ問わない? 日経社説「アフガンの混乱回避へ最大限の圧力を」

17日の日本経済新聞朝刊総合1面に載った「アフガンの混乱回避へ最大限の圧力を」という社説はピントがずれていると感じた。中身を見ながら具体的に指摘したい。

筑後川昇開橋

【日経の社説】

アフガニスタンで反政府武装勢力タリバンが全土を掌握し、政府が事実上崩壊した。米国が2001年の米同時テロをきっかけに打倒して以来、20年ぶりにタリバン主導の政権が復活する。

武力による強引な政権奪取は許されない。8月末の米軍撤収を控え、タリバンはアフガン政府との対話を約束したはずだ。同国を混乱に引き戻さないために、国際社会はタリバンに対する圧力を強める必要がある。


◎なぜ米国を責めない?

日経は米国に借りでもあるのだろうか。「タリバン主導の政権が復活する」ことを歓迎しないのならば、まずはさっさと逃げ出した米国を責めるべきだ。しかし、そうした話は全く出てこない。なのに「同国を混乱に引き戻さないために、国際社会はタリバンに対する圧力を強める必要がある」とは訴える。それなら「米軍撤収」の撤回を求めればいいではないか。米国にその意思がないことを批判してもいい。しかし、日経にその気はないようだ。

武力による強引な政権奪取は許されない」という主張も納得できない。「タリバン政権は前回、米同時テロを起こした国際テロ組織アルカイダの首謀者をかくまったとして米国の攻撃を受けて崩壊した」はずだ。

選挙で負けたのに下野せず「武力による強引な政権奪取」に乗り出した訳ではない。自分たちが「武力による強引な政権奪取」をされた側だ。やり返す権利があるとも言える。

武力による強引な政権奪取」はいかなる理由があってもダメと言うならば「タリバン政権」を武力で排除した米国の行動がそもそもダメだ。しかし日経は米国には甘い。なので説得力がなくなってしまう。

続きを見ていく。


【日経の社説】

タリバンは主要都市を次々と攻略し、兵力や装備で上回るはずの政府軍は敗走した。予想を上回る速度で首都カブールに到達し、ガニ大統領は出国した。治安の急速な悪化で避難民が多数出ている。

タリバン政権は前回、米同時テロを起こした国際テロ組織アルカイダの首謀者をかくまったとして米国の攻撃を受けて崩壊した。統治時代はイスラム法を厳格に適用し、女性の教育や就労を禁じるなど深刻な人権上の問題を起こした。その再来は容認できない。

タリバンは今もアルカイダとのつながりが指摘される。各地からテロリストが流入してアフガンが再びテロの温床になれば、世界にとって重大な脅威となる。

バイデン米大統領は米同時テロから20年の節目より前に米軍を撤収させ、「米国史上、最も長い戦争」を終わらせる考えを示してきた。米国が20年2月にタリバンと交わした和平合意は恒久停戦をめぐるアフガン政府との交渉や、アフガンをテロ組織の拠点にさせないことを確認した。

タリバンの行動はこの合意を踏みにじる。各国は新政権を承認すべきでない。重要なのはアフガンのあらゆる勢力が参加する政権の実現だ。タリバンが国際的に認められるには、国際基準に合わせる努力が不可欠である


◎「あらゆる勢力が参加する政権」とは?

まず「重要なのはアフガンのあらゆる勢力が参加する政権の実現だ」という主張がよく分からない。「あらゆる勢力が参加する政権」を「実現」させている国などあるのか。選挙をやって全政党が与党となる挙国一致内閣を作るイメージなのか。非常にハードルが高そうだが、なぜそんな「政権の実現」が「重要」なのか、よく分からない。

タリバンが国際的に認められるには、国際基準に合わせる努力が不可欠である」との説明も謎だ。「タリバンの行動はこの合意を踏みにじる。各国は新政権を承認すべきでない」との立場で言えば、「国際基準に合わせる努力」をどれだけしようと「合意を踏みにじ」った過去は消せないから「各国は新政権を承認すべきでない」との結論に至るはずだ。

そもそも「国際基準」が何を指すのか、よく分からない。「国際基準」では「あらゆる勢力が参加する政権の実現」が必要とされているのか。だとしたら日本も米国も「国際基準」に達していない。

続きを見ていく。

【日経の社説】

アフガンの混乱は国境を接する中国やパキスタン、イランなどにも見過ごせない事態だ。日米欧は周辺国と連携し、タリバンに平和的な政権移行を迫る必要がある

アフガンへの派兵は北大西洋条約機構(NATO)も歩調を合わせた。日本は復興支援会議を東京で開くなど、内戦で疲弊したアフガンの復興に協力してきたが、見直しを迫られる。20年を経て振り出しに戻るのは残念だ

日本は茂木敏充外相がちょうど中東を訪問中である。アフガンを安定に導く国際社会の輪に粘り強く加わっていきたい。


◎「振り出しに戻る」?

まず「日米欧は周辺国と連携し、タリバンに平和的な政権移行を迫る必要がある」という説明が引っかかる。「アフガンを安定に導く国際社会の輪」とは「日米欧」と「周辺国」だけで作られているのか。カナダやオーストリアや韓国は無関係なのか。

内戦で疲弊したアフガンの復興に協力してきたが、見直しを迫られる。20年を経て振り出しに戻る」というくだりも理解に苦しむ。例えば日本の「協力」で水道が整備されたとしよう。こうしたインフラも「タリバン」に全て破壊されてしまうとの前提なのか。

アフガニスタンの非「タリバン」化が「20年を経て振り出しに戻る」のは分かるが「復興」まで「振り出しに戻る」と考えるのは無理がある。


※今回取り上げた社説「アフガンの混乱回避へ最大限の圧力を」https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210817&ng=DGKKZO74827350X10C21A8EA1000


※社説の評価はD(問題あり)

2021年8月14日土曜日

五輪開催はアスリートに罪あり? AERAdot.の記事に見える上野千鶴子氏の問題

上野千鶴子氏の発言が相変わらず酷い。14日付でAERAdot.に載った「上野千鶴子、五輪の強行開催のツケは『政権に払わせるべき』」という記事の中身を見ながら具体的に指摘したい。

夕暮れ時の筑後川

【上野氏の発言】

このまま、パラリンピックも開催するつもりなのか。本来ならばパラリンピックこそ応援したいし、パラリンピックによって街のバリアフリー化も進むのではと期待がありました。しかし、パラアスリートは必要な付き添いスタッフも多いし、障害の種類によってはパンデミックに対して脆弱(ぜいじゃく)です。朝日新聞社が主催の甲子園も開催されるようですが、中止になった去年よりも感染状況はずっと深刻です。都道府県境を越えて多くの人が移動するのはかまわないのでしょうか。パラリンピックも甲子園も、本来中止すべきです。ただ、五輪を開催しているのにやめろとも言えないでしょう


◎中止要求はやめた?

上野氏らは東京五輪・パラリンピックの中止を求める署名を集めて五輪開催前に東京都に提出したはずだ。しかし、なぜか「五輪を開催しているのにやめろとも言えないでしょう」と弱腰になっている。中止への賛同があまり得られず弱気になっているのか。

パラリンピックも甲子園も、本来中止すべき」ならば、愚直に「中止」を求めるべきだ。特に「パラリンピック」は開催までに時間がある。

さらに気になったのが以下のくだりだ。

【上野氏の発言】

「アスリートに罪はない」「選手がかわいそう」という言葉が五輪の免罪符のように使われましたが、最近の感染状況を見るとこれにも賛同できません。国民全員が我慢を強いられています。「みんなでこの難局を乗り越えるために、一緒に我慢しよう」とアスリートに求めてはいけないでしょうか。

政権には、このツケを払ってもらわなければなりません。政治家に責任を取らせる責任は私たち国民にあります。


◎「アスリートにも罪がある」?

『アスリートに罪はない』『選手がかわいそう』という言葉が五輪の免罪符のように使われましたが、最近の感染状況を見るとこれにも賛同できません」と上野氏は言う。つまり「アスリートにも罪がある」と見ているのだろう。「最近の感染状況を見るとこれにも賛同できません」という発言からは「感染拡大を招いた罪がアスリートにもある」と取れる。

ルール違反があった場合はともかく、プレーブックに従って行動した「アスリート」にどんな「」があるのか。百歩譲って「」があるとして、どんな罰を受けるべきなのか。

選手がかわいそう」と上野氏が思わないのは勝手だが、東京五輪での「アスリート」のコメントからは、五輪開催を嫌がる人への配慮を多く感じた。そうした状況下で開催できた感謝を表明した「アスリート」も多かった。個人的には、本来背負わなくても良いものを背負わせてしまって「選手がかわいそう」と思わずにはいられなかった。

なのに、さらに追い打ちをかけて「」を認定し罰を与えるべきなのか。上野氏にはよく考えてほしい。

上野氏は五輪と「最近の感染状況」に勝手に因果関係を見出しているようだが、これも感心しない。上野氏が事実を重視しない学者であることは以前に指摘した。それでも学者の端くれではあるはずだ。ならば因果関係があると言える根拠は示すべきだ。

死者数はずっと低水準なので「五輪開催によって多くの命が失われた」とは言えないだろう。仮に五輪開催と感染者数増加に因果関係があるとしても、死者数の増加に結び付いていないならば大した問題ではない。

多くの若者の夢を奪ってまで五輪を中止するならば「代わりに多くの命が救われる」ぐらいのメリットは欲しい。今のところ、五輪が多くの日本人の命を奪った可能性はゼロに近い。

上野氏が新型コロナウイルスを怖がるのは分かる。そこを責めるつもりはない。だからと言って、まともな根拠もなしに「アスリート」に罪を着せても良い訳ではない。


※今回取り上げた記事「上野千鶴子、五輪の強行開催のツケは『政権に払わせるべき』」https://dot.asahi.com/aera/2021081100025.html?page=1


※記事の評価は見送る。上野千鶴子氏に関しては以下の投稿も参照してほしい。

東洋経済「会社とジェンダー」で事実誤認発言を連発した上野千鶴子氏https://kagehidehiko.blogspot.com/2021/06/blog-post_10.html

「女性にすべてのシワ寄せが来る」と東洋経済で訴えた上野千鶴子氏の誤解https://kagehidehiko.blogspot.com/2021/06/blog-post_11.html

日経ビジネスで「罰則付きクオータ制」の導入を求める上野千鶴子氏に考えてほしいことhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2020/11/blog-post_22.html

日経女性面でのクオータ制導入論が「非論理的」な上野千鶴子氏https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/01/blog-post_27.html

「ダイバーシティー推進で企業はもうかる」と断定する上野千鶴子氏の誤解https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/07/blog-post_22.html

2021年8月13日金曜日

「男女格差を解消しても少子化克服は無理」と教えてくれる日経のFT翻訳記事

13日の日本経済新聞朝刊オピニオン面にエンプロイメント・コラムニストのサラ・オコナー氏が書いた「FINANCIAL TIMES~『日本化』する世界人口」という記事は興味深い。日経で女性問題を担当する記者にはぜひ読んでほしい。特に参考にしてほしいのが以下のくだりだ。

夕暮れ時の筑後川

【日経の記事】

いずれにせよ、我々が先進国の出生率を人口置換水準にまで回復させたいと考えても、それは無理かもしれない。

フィンランドは仕事と育児を両立できるよう様々な政策を実施しているが、出生率はいまだに置換水準の2.1をはるかに下回ったままだ。フィンランドの人口研究所のアンナ・ロトキルヒ研究教授はこう話す。

「16歳未満の子どもを持つ親たちがどのように仕事と家庭を両立させているかを調査したところ、最大の問題はどうしたら興味深い調査報告を書けるかだった。というのも、誰もが現状に非常に満足していたからだ」

そしてこう続けた。「これまで、真の男女平等を実現できれば出生率は上がるという期待があった。ところが、両親が共に働き、キャリアを追求しつつ家庭を築けるようになっても、平均出生率は1.5程度にしかならなそうなことが判明した。ただ、人々がそれで満足しているのであれば、この出生率の低さは果たして問題視すべきなのか、ということだ


◎「欧州を見習え」パターンはもうやめよう!

日経で女性問題を扱う記事には大きな流れがある。「男女格差を少なくすれば出生率が上向く。だから男女格差の小さい欧州(よく出てくるのは出生率が比較的高いフランスやスウェーデン)を見習おう」などと訴えるのが、よくあるパターンだ。

男女格差を少なくしても少子化問題は克服できないーー。欧州の動向からはそう読み取れる。「フィンランドは仕事と育児を両立できるよう様々な政策を実施しているが、出生率はいまだに置換水準の2.1をはるかに下回ったままだ」「我々が先進国の出生率を人口置換水準にまで回復させたいと考えても、それは無理かもしれない」というオコナー氏の見方は基本的に正しい。

では、なぜ女性問題を扱う筆者の多くが、強引に男女格差と少子化問題を結び付けてしまうのか。推測だが、「男女格差を解消したい」という強い動機を持った人が記事を書いているのではないか。

故に「男女格差の解消には大きなメリットがある(男女格差の放置には大きなデメリットがある)」というストーリーを描きたくなる。その時に思い付きやすいのが少子化問題なのだろう。こういう人は「男女格差を小さくすれば出生率が上向くというデータがないか」と探してしまう。しかし都合のいいデータはない。なので、強引にデータを解釈してしまう。

男女格差の縮小を訴える人が大好きなのがジェンダーギャップ指数だ。フィンランドはこの指数で2021年に2位になっており、男女格差の小ささは世界トップクラス。なのに「出生率はいまだに置換水準の2.1をはるかに下回ったまま」だ。「男女格差を小さくしないと出生率は上向かない」などと訴える人はフィンランドの現実を見てほしい。そして出生率が「置換水準」を上回れないのは先進国に共通する傾向だ。

両親が共に働き、キャリアを追求しつつ家庭を築けるようになっても、平均出生率は1.5程度にしかならなそうなことが判明した」と「フィンランドの人口研究所のアンナ・ロトキルヒ研究教授」も述べている。

個人的には少子化歓迎なので「出生率の低さ」を「問題視」する必要はないと感じる。今回の記事でオコナー氏は「原因が何であれ出生率の低下は喜ぶべきことではない」と訴えており、この点で自分と考えは異なる。

だが、それはそれでいい。問題は男女格差の解消によって「出生率は上がるという期待」だ。欧州の動向などからは「どんなに男女格差の解消を進めても、先進国的な社会構造を変えない限り出生率は人口置換水準を下回る」と判断できる。

これは男女格差解消を訴える人にとっては都合が悪い。強力なエサがなくなるからだ。「男女格差の解消を進めないと少子化は克服できませんよ」という脅し文句に説得力はもはやない。

そのことをこの記事は教えてくれている。


※今回取り上げた記事「FINANCIAL TIMES~『日本化』する世界人口

https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210813&ng=DGKKZO74719900S1A810C2TCR000


※記事の評価はB(優れている)

2021年8月12日木曜日

1面ネタには苦しい日経「がん治療中でも保険~マイシン、乳がんなど再発備え」

12日の日本経済新聞朝刊1面に載った「がん治療中でも保険~マイシン、乳がんなど再発備え」という記事は1面に持ってくるべきネタなのか疑問だ。全文を見た上で、その理由を述べたい。

熊本市内の鉄塔と夕陽

【日経の記事】

富国生命保険や三菱商事が出資するMICIN(マイシン、東京・千代田)は、がんの治療中でも再発に備えて加入できる新たな保険を発売する。最新の臨床データをもとに発病の可能性を分析。乳がんなどの再発に保障を提供する。画一的なリスク分析に頼る保険業界の事業モデルに変革を促す可能性がある。

乳がんと子宮頸(けい)がん、子宮体がんの再発を対象にした保険を8月下旬に発売する。一般的な保険商品の開発に使われる標準生命表や患者調査ではなく、連携する医療機関から入手したデータを活用する。

医療技術の進歩でがん患者の生存率は年々上昇している。治療中から加入でき、再発時の経済的な負担と死亡の両方に備えられる保険は初めてという。マイシンはリスクの精密な把握と、病状に応じた保険料の細かな設定により、安定的に運営できる仕組みを整えた。


◎値段が分からないと…

治療中から加入でき、再発時の経済的な負担と死亡の両方に備えられる保険は初めて」というのが、このニュースの肝だろう。「再発時の経済的な負担と死亡の両方に備えられる保険」はあったが「治療中から加入でき」るタイプは「初めて」との趣旨だと思える。この前提でみれば、それほど画期的な話ではない。がんの「再発時」に「備えられる保険」を初めて開発したのならば、まだ分かるが…。

個人的には、高額療養費制度がある日本で民間の医療保険に加入する必要はないと見ている。がん保険に関しても同じだ。保険適用外の治療を想定すれば話は少し変わるが、これを保険でカバーすべきとは感じない。しかし、ここを掘り下げるつもりはない。がん保険にも意味があると仮定して話を進めていこう。

意味があるとしても、保険料と補償内容の関係が分からないのでは話にならない。しかし記事には、それがない。詳細な説明は無理だとしても、モデルケースぐらいは示してほしい。推測だが、保険料が高い割に補償内容は大したことがないのではないか。

再発時の経済的な負担と死亡の両方に備えられる保険」を「治療中から加入でき」るようにすれば、保険料は高くなりやすいだろう。それでも「マイシン」の保険が画期的だと判断したのならば、いくら払えばどの程度の補償が得られるのかを説明した上で1面の記事にすればいい。

そこから逃げているのが残念だ。筆者は保険料のことなど全く考えていないのかもしれないが、だとしたら保険の記事を書く資格がそもそもない。


※今回取り上げた記事「がん治療中でも保険~マイシン、乳がんなど再発備え

https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210812&ng=DGKKZO74703300S1A810C2MM8000


※記事の評価はD(問題あり)

2021年8月11日水曜日

自然感染の影響はなぜ無視? 日経「接種7割では集団免疫難しく」

11日の日本経済新聞朝刊総合2面に載った「接種7割では集団免疫難しく~デルタ型で目安8割超に」という記事には色々と疑問が残った。中身を見ながら具体的に指摘したい。

道の駅 昆虫の里たびら

【日経の記事】

新型コロナウイルスのインド型(デルタ型)の広がりで、ワクチンによる集団免疫の獲得が遠のいている。従来型ウイルスでは人口の6~7割の接種が目安とされたが、デルタ型は8~9割に上がった公算が大きい。接種率を最大限に上げる努力を続けつつ、コロナとの共存も視野に入れた出口戦略が必要になる。


◎そもそも「集団免疫の獲得」は可能?

ワクチン接種率が「8~9割」になれば「集団免疫の獲得」に至ると筆者は見ているようだ。しかし共同通信の記事によると「オックスフォード大のアンドルー・ポラード教授は(8月)10日、(英国)下院の超党派議員らに、集団免疫獲得を前提とした接種計画を立てないよう警告」し「接種した人も感染しており(デルタ株がある中)集団免疫を達成する可能性はない」と断言したらしい。

「可能性が低い」のではなく「集団免疫を達成する可能性はない」と言い切っている。本当にワクチン接種率が「8~9割」になれば「集団免疫」を「獲得」できるのか。日経の担当記者は改めて考えてほしい。

さらに見ていこう。

【日経の記事】

「国民の70%が接種しても、恐らく残りの30%が防護されることにはならない」。政府の新型コロナ対策分科会の尾身茂会長は7月29日、こう述べた。実際、人口の6~7割が2回接種したイスラエルやアイスランドでもデルタ型の感染者が増えている。

日本政府によると国内で9日までに2回接種した人の割合は34%。月内の4割到達をめざす。

集団免疫とは免疫を持つ人が一定以上の割合になって感染の連鎖が起きにくくなり、流行が収束していく状態。無防備な集団で感染者1人が何人にうつすかを示す基本再生産数から、集団免疫に必要な接種率の目安(しきい値)をはじける。

仮に集団免疫が達成できなくても、接種率を高める意義は大きい。入院や死亡を防ぐワクチンの効果はデルタ型でも90%以上と高い。完全ではないが感染を減らす効果も確認されている。

達成が難しくなった最大の理由はデルタ型の感染力の強さだ。その基本再生産数を英インペリアル・カレッジ・ロンドンは5~8程度、米疾病対策センター(CDC)は5~9程度と推定する。

おたふく風邪(基本再生産数4~7)や風疹(同5~7)並みか、水ぼうそう(水痘、同8~10)に近い。5と仮定するとしきい値は80%、6なら83%に上がる。英国の有力医学誌ランセットの呼吸器内科専門誌も、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院のマーティン・ヒバード教授の「基本再生産数が6~7であれば集団免疫のしきい値は85%程度」との見解を報じた。

従来型ウイルスの基本再生産数は2.5~3程度と推定されていた。2.5ならしきい値は人口の60%、3なら67%となる。これが集団免疫を獲得できる接種率の目安が「人口の6~7割」とされてきた根拠だった。


◎なぜ自然感染は無視?

集団免疫とは免疫を持つ人が一定以上の割合になって感染の連鎖が起きにくくなり、流行が収束していく状態」だと記事では書いている。自然感染でも「免疫」は獲得できる。しかし、なぜか完全に無視して話が進む。

集団免疫のしきい値は85%程度」で、「集団免疫」を「獲得」するのに必要な接種率は「8~9割」。これは無理がある。「集団免疫のしきい値は85%程度」だとしても、既に多くの人が自然感染している場合は、もっと低い接種率で「集団免疫」を「獲得」できるはずだ。

自然感染を含めて考えれば、接種率がどんなに低くても「集団免疫」を「獲得」できるという計算は成り立つはずだ。ワクチン接種を進めたいとの意図が筆者にはあるのだろうが、だからと言って自然感染を無視するのは感心しない。


※今回取り上げた記事「接種7割では集団免疫難しく~デルタ型で目安8割超に」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC029TZ0S1A800C2000000/


※記事の評価はD(問題あり)

2021年8月10日火曜日

日経 川崎なつ美記者の「無意識の偏見」が垣間見える「Women’sトレンド」

女性問題を扱った記事で「無意識の偏見」という言葉を見つけたら要注意だ。9日の日本経済新聞朝刊女性面に川崎なつ美記者が書いた「Women’sトレンド~10代、無意識に思考制限?」という記事は特に問題が多かった。中身を見ていこう。

大バエ灯台

【日経の記事】

ガールスカウト日本連盟(東京・渋谷)の調査で、女子高校生の48%が「男子は女子よりも理数系の能力が高い」と考えていることが分かった。だが、国際学力調査の結果によると、日本の女子の理数系の得点は他国の男子よりも高い。同連盟は「『女の子はこういうものだ』とのメッセージを日々無意識に受け取り、思考が制限されている」と指摘する。


◎強引な比較に意味ある?

男子は女子よりも理数系の能力が高い」と「考えている」人は間違っているのだろうか。「国際学力調査」の結果では、日本に限っても世界でも「男子」の「理数系の得点」が「女子」を上回っているとしよう。この結果を基にすれば「男子は女子よりも理数系の能力が高い」と認識するのが自然だ。「差はない」とか「女子の方が上だ」と認識する方が無理がある。

しかし川崎記者はそう思っていないようだ。「日本の女子の理数系の得点は他国の男子よりも高い」と驚くような比較を持ち出してくる。「国内では男子が上だが、世界的に見れば差はない」といった話なら分かる。そうではなく「日本の女子の理数系の得点」を「他国の男子」と比べている。

例えば「女性の所得は男性に比べて少ないのか」との問いに対して「少なくない。日本の女性の平均所得は北朝鮮の男性の平均所得を上回っている」といった比較に意味があるだろうか。

ガールスカウト日本連盟」の「『女の子はこういうものだ』とのメッセージを日々無意識に受け取り、思考が制限されている」とのコメントも謎だ。「男子は女子よりも理数系の能力が高い」と認識している「女子」はマインドコントロールでも受けているようなコメントだ。しかし「国際学力調査」の結果が「男子」優位を裏付けているのならば、ごく自然に状況を認識しているだけだ。「差がない」「女子の方が上」と認識している「女子」の方が誤った「メッセージ」を受け取っている可能性が高い。

続きを見ていこう。


【日経の記事】

調査は2020年6~7月にインターネットで実施し、700人の回答を得た。「女子は男子よりも料理ができたほうがいい」と考える人は44%にのぼった。一方で、女子も「経済的な自立が必要」「大学教育を受けることが重要」と答えた人もそれぞれ95%を超えた。高等教育や経済的自立は男女の差なく必要だと感じている一方で、家庭内の役割には無意識の思い込みがあるようだ


◎なぜ「無意識」?

家庭内の役割には無意識の思い込みがあるようだ」と川崎記者は言う。「女子は男子よりも料理ができたほうがいい」と考える人に「思い込み」があるとしても、なぜそれが「無意識」になってしまうのか。「女子はやっぱり料理ができなくっちゃ」と普段から公言している女性でも「無意識」なのか。

むしろ「女子は男子よりも料理ができたほうがいい」という考えを「家庭内の役割」として捉えているところに川崎記者の「無意識の思い込み」があるのではないか。「男性をつかまえる上では料理ができた方がいい。でも結婚したら料理はしない」と考える女性がいてもおかしくない。

今回の記事では「10代でも無意識の偏見がある」とのタイトルで表を載せており、そこには「女子も経済的な自立が必要(98%)」「女子も大学教育を受けることは重要(96%)」「男子は女子よりも理数系の能力が高い(48%)」「女子は男子よりも料理ができたほうがいい(44%)」という4つの項目がある。

女子は男子よりも料理ができたほうがいい」という考えを川崎記者は「無意識の偏見」だと見ているのだろう。しかし無理がある。事実に反している訳ではないからだ。あくまで個人の価値観の問題だ。それに、自らの利益を増やすという意味で正しい考えとなる可能性もある。

「料理の技術が高い女性は男性からの評価が高く、高年収の男性と結婚する確率が高まる。一方、男性は料理の技術を高めても女性に評価されない」という傾向が確認できる場合、高年収男性との結婚を望む女性にとって「女子は男子よりも料理ができたほうがいい」という考えは明らかに正しい。

女子も経済的な自立が必要」「女子も大学教育を受けることは重要」「女子は男子よりも料理ができたほうがいいとは言えない」ーー。川崎記者はそう信じているのだろう。そこを否定するつもりはない。しかし、自分と反する考えを「偏見」とみなすのはやめた方がいい。上記の3つは基本的に価値観の問題だ。

「高年収の男性と結婚して専業主婦になるのが夢」という価値観が間違っている訳ではない。そういう女性が「女子に経済的な自立が必要とは限らない」と考えているとしても「偏見」とは言えない。むしろ「女子も(全員が)経済的な自立が必要」という考えの方が「偏見」に近い。「経済的な自立」なしに楽しく有意義な人生を送る道は明らかにある。

こうやって見てくると「無意識の偏見」の持ち主は川崎記者の方だと思えてくる。「そんなことはない。なぜならば~」と川崎記者は反論できるだろうか。


※今回取り上げた記事「Women’sトレンド~10代、無意識に思考制限?」https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210809&ng=DGKKZO74558380W1A800C2TY5000


※記事の評価はD(問題あり)。川崎なつ美記者への評価も暫定でDとする。

2021年8月9日月曜日

「1964」との比較が苦しい日経 大島三緒氏の東京五輪解説

東京五輪の閉幕を受けて9日の日本経済新聞朝刊1面に大島三緒氏が書いた「続『1964』の夢と現実」という記事には無理を感じた。「1964」の東京五輪との比較がかなり苦しい。記事を最初から見ていこう。

夕暮れ時の筑後川

【日経の記事】

57年後の日本に「東洋の魔女」はいなかった

8月2日のバレーボール女子1次リーグ最終戦。日本代表はドミニカ共和国に敗れ、四半世紀ぶりに決勝トーナメント進出を逃した。ため息をついた人は多いはずだ。

1964年の東京五輪で全国を沸かせ、戦後昭和の成功物語を象徴する女子バレーチーム「東洋の魔女」――。

さきごろは菅義偉首相も栄光を語っていたが、五輪をやれば日本中が高揚し、きっと明るい未来がやってくると思わせる魔力が、たしかに彼女たちの歴史にはある。

そんなDNAを継ぐチームの退場が、こんどの五輪をめぐる光景に重なるのだ


◎女子バレーでの比較に意味ある?

1964年の東京五輪」は盛り上がったが、その再現はならなかったーー。大島氏はそう訴えたいのだろう。そこで「女子バレー」を取り上げて、今回は「四半世紀ぶりに決勝トーナメント進出を逃した」と嘆いている。

女子バレー」を語る記事なら、それでいい。しかし、この記事では東京五輪を総括しているはずだ。ならば「女子バレー」の敗退に焦点を当てて「57年後の日本に『東洋の魔女』はいなかった」と言い切っていいのか。

金メダルのソフトボール。格上を破って決勝に進出した女子バスケット。こうしたところまで視線を広げれば「57年後の日本にも『東洋の魔女』はいた」とも言える。男子も含めて多くの日本選手が活躍し過去最多となる58個のメダルを獲得したのに、「女子バレー」のみを「1964年の東京五輪」と比べて「そんなDNAを継ぐチームの退場が、こんどの五輪をめぐる光景に重なるのだ」と言われても「なるほど」とは思えない。

続きを見ていこう。


【日経の記事】

競技会自体は、長丁場をよく乗り切ったものだと思う。これほどの巨大イベントをそつなく運営したのは日本の「現場の力」である。

名場面も多かった。地の利も寄与したにせよ、日本選手の活躍のなんと目覚ましかったことか。バスケットボール女子準々決勝での劇的な逆転シュートは、今風に言えば「鳥肌が立った」。銀メダルへとつながった奇跡だ。


◎「1964」と大差ないような…

大島氏も「バスケットボール女子準々決勝での劇的な逆転シュートは、今風に言えば『鳥肌が立った』」らしい。だとすれば、やはり「東洋の魔女」はいたと見る方が自然だ。「きっと明るい未来がやってくると思わせる魔力」が1964年の「東洋の魔女」にあったとすれば、それは今回も同じではないか。

バスケットボール女子」チームには、勝利を信じて努力すれば「きっと明るい未来がやってくると思わせる魔力」がなかったのか。多くの10代選手がメダルを獲得したスケートボードは日本の「明るい未来」を期待させてくれるものではなかったのか。

1964年の東京五輪」に関する記憶はないので断言はできないが、選手たちの活躍に国民の多くが勇気づけらたという点で大差ない気がする。なのに「女子バレー」を今大会の象徴として取り上げるべきなのか。

さらに見ていこう。


【日経の記事】

しかし、それでも「1964」がもたらしたような多幸感は社会に見いだせない。聖火が消えて、コロナ禍の日常に引き戻されるだけでなく、そもそも往時との落差があまりにも大きいのである

この大会をなぜ、なんのために開催するのか。問われ続けた大義は曖昧なまま現在に至る。通奏低音として流れていたのは、やはり64年の再来を望む意識だろう。五輪の呪縛が、政治家や官僚を捉えて離さないともいえる。


◎「1964」を覚えてる?

大島氏は1982年に日本経済新聞社に入社したらしい。だとしたら「1964」の記憶はほぼないはずだ。なのに「『1964』がもたらしたような多幸感は社会に見いだせない」と言い切っている。当時の「多幸感」は何で確認したのだろうか。

聖火が消え」た後に「日常に引き戻される」のは「1964」も同じだ。「コロナ禍」はないにしても、当時の暮らしが今よりずっと貧しかったのは間違いない。「往時との落差があまりにも大きい」と大島氏は言うが、根拠となるデータは示していない。本当に、そんなに「落差」があるのか。

この大会をなぜ、なんのために開催するのか。問われ続けた大義は曖昧なまま現在に至る」という問いにも、あまり意味を感じない。そもそも五輪を開催するのに「大義」が必要なのか。例えばサッカーW杯の開催に「大義」が要るのか。スポーツの大会を開くのにいちいち「大義」を明確にさせるべきなのか。大島氏には、そこを考えてほしい。

さらに続きを見ていく。


【日経の記事】

このパンデミックは、そういう幻想を揺るがせた。続「1964」への疑念は名古屋や大阪への招致時にも生じていたが、コロナ禍はそれを噴出させた。人々は競技に感動しても、五輪という仕掛け自体には酔っていない


◎なぜそう言える?

人々は競技に感動しても、五輪という仕掛け自体には酔っていない」と大島氏は言うが、これまた根拠は示していない。「競技に感動」したのならば「五輪という仕掛け自体」に酔ったとも言えるのではないか。

国を代表してトップアスリートが戦いメダルを争うという「仕掛け自体」に酔わないで「競技に感動」することが、そもそもできるのか疑問だ。

記事の終盤を見ていこう。


【日経の記事】

つかの間の夢から覚めれば、コロナ対応に手間取り、デジタル化は大きく遅れ、多様性尊重も掛け声ばかりという現実が目の前にある。そして急速な高齢化を伴った人口減が進んでいく。

どんなにカラ元気を出しても昭和には戻れない。しかし皮肉にも、この異形の五輪は、日本人にようやく64年幻想からの脱却を果たさせるかもしれない。それは戦後史の転換点ともなる変化だ。

連日の熱戦を眺めて感じ入ったのは、若いアスリートたちの自由さである。「この競技が大好き」。国や社会の重圧と闘った「東洋の魔女」が持てなかった言葉だろう


◎昭和は良かった?

どんなにカラ元気を出しても昭和には戻れない」との記述から、大島氏が「昭和」を肯定的に捉えているのが分かる。「昭和には戻れない」のは確かだが、戻れたとしたら国民は喜ぶだろうか。

1964」の日本にはインターネットも携帯電話もない。固定電話さえも十分に普及していない。テレビも多くは白黒だ。番組の録画など当然にできない。都市部では大気汚染などの公害問題が深刻化している。セクハラ、パワハラといった概念もない。体罰などにもずっと寛容だ。21世紀の暮らしに慣れた日本人が、そんな社会に本当に戻りたいだろうか。

この異形の五輪は、日本人にようやく64年幻想からの脱却を果たさせるかもしれない」と大島氏は言うが「64年幻想」など、そもそもあるのか。「五輪の呪縛が、政治家や官僚を捉えて離さない」のかどうかは分からないが、50代以下の「日本人」にはそもそも「1964」の記憶がない。個人的には「64年幻想」など全く持っていない。

記事の結びにも注文を付けておきたい。「東洋の魔女」は「この競技が大好き」という気持ちを持てなかったと大島氏は見ているようだ。これも根拠は示していない。勝手な推測で今の「若いアスリート」と比べて良いのか。

国や社会の重圧と闘った」のは今の「若いアスリート」も同じだ。開催反対の声が大きかっただけに「国や社会の重圧」は別の意味でも強かった。「1964」にはなかったSNSを通じた直接的な個人攻撃という問題も今はある。

1964」と今回の東京五輪の「落差」が大きいとの前提の方が記事をまとめやすいのは分かる。しかし、その比較には説得力がなかった。

ついでに言うと署名が「論説委員会 大島三緒」となっていたのが気になった。なぜ「論説委員」ではなく「論説委員会」なのか。「論説委員会」の総意としての記事という意味なのか。その説明は欲しかった。


※今回取り上げた記事「続『1964』の夢と現実」https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210809&ng=DGKKZO74627620Z00C21A8MM8000


※記事の評価はD(問題あり)。 大島三緒氏への評価は暫定C(平均的)から暫定Dへ引き下げる。大島氏に関しては以下の投稿も参照してほしい。

「出口」見えたのでは? 日経 大島三緒論説委員「出口見えぬ学術会議問題」https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/10/blog-post_19.html

2021年8月7日土曜日

時間はかかっても間違い指摘に真摯に対応した日経ビジネス

アジアの先進国」に関する間違い指摘に日経ビジネスがきちんと対応できるか不安視していたが、杞憂だった。7月10日の問い合わせ→7月14日の回答→7月27日の再問い合わせ→8月5日の回答…という順番で経緯を見ていきたい。

筑後川と夕陽

【日経ビジネスへの問い合わせ】

日経ビジネス編集部 担当者様

7月12日号に載った「世界の最新経営理論 ウリケ・シェーデの再興THE KAISHA(1)『20ー80現象』から脱却せよ~『日本経済は強い』は正しい」という記事についてお尋ねします。問題としたいのは「(日本は)アジアの先進国の中では、韓国、台湾を上回り、1人当たりGDPが最も高い」との記述です。

IMFの分類に従うと「アジアの先進国」に該当するのは日本、韓国、台湾、シンガポール、イスラエルの5カ国(ここでは台湾を国と見なします)となります。「OECD加盟国=先進国」との前提も検討しましたが、これだと台湾が漏れてしまうため記事の内容と整合しません。またOECD加盟国の中には一般的に先進国と見なされない国も含まれています。

アジアの先進国」を上記の5カ国とした場合、「1人当たりGDPが最も高い」のはシンガポールではありませんか。2位がイスラエルで日本は3位にとどまるはずです。

2020年8月3日付の「逆・タイムマシン経営論 第3章 遠近歪曲トラップ~『日本はダメ』という言説を疑え! 判断を惑わす罠を回避するには?」という御誌の記事によると、2018年の1人当たりGDPでシンガポールが世界8位となっています。5つの「アジアの先進国」の中で唯一の10位以内です。つまり「アジアの先進国」の中で日本の「1人当たりGDPが最も高い」とは言えません。

今回の記事では2017年のデータを基にしているのかもしれませんが、日本の3位は変わらないはずです。イスラエルに関しては「中東はアジアではない」といった解釈が成り立つ余地はあります。しかしシンガポールを「アジアの先進国」から除くのはかなり難しそうです。「OECD加盟国ではないから」とすると、なぜ「台湾」を「アジアの先進国」に含めたのかという問題が生じます。

「(日本は)アジアの先進国の中では、韓国、台湾を上回り、1人当たりGDPが最も高い」との記述は誤りと見て良いのでしょうか。問題なしとの判断であれば、その根拠も併せて教えてください。

お忙しいところ恐縮ですが、よろしくお願いします。


【日経ビジネスの回答】

貴重なご指摘をありがとうございます。調査の上、対応を検討いたします。


【日経ビジネスへの再問い合わせ】

日経BP社 担当者様 

お問い合わせ回答 [No.#210710-000129]についてお尋ねします。

7月10日に問い合わせた件に関して同月14日に以下の回答をいただきました。その後、調査を踏まえた回答が届くのだと理解していましたが、2週間近くが経過しても連絡がありません。

(1)14日の回答が最終回答と考えてよいのでしょうか。

(2)14日の回答が最終回答だとすると、間違い指摘に対して事実上のゼロ回答だと言えます。記事の説明に誤りがあったかどうかをなぜ明らかにできないのでしょうか。

記事中の誤りは、販売している商品の欠陥とも言えます。定期購読者に対する適切な対応をお願いします。


【日経ビジネスの回答】

平素は、日経ビジネスをお読みいただきありがとうございます。

お問い合わせの件につきまして、8月9日号にて、

日経ビジネス7月12日号96ページで「アジアの先進国の中では、韓国、台湾を上回り、1人当たりのGDPが最も高い」とあるのは、「アジアの中では、1人当たりのGDPが韓国、台湾を上回っている」の誤りでした。

との訂正を出させていただきました。

今後とも、日経ビジネスをよろしくお願いします。


◇   ◇   ◇


時間がかかり過ぎているとは思うが、間違い指摘への対応として大筋で問題はない。ミス放置が目立つ日本経済新聞は見習ってほしい。


※今回取り上げた記事「世界の最新経営理論 ウリケ・シェーデの再興THE KAISHA(1)『20ー80現象』から脱却せよ~『日本経済は強い』は正しい」https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00123/00099/


※記事の評価はD(問題あり)

2021年8月6日金曜日

2%の物価目標が2008年にあった? 岩田一政 日本経済研究センター理事長に問う

6日の日本経済新聞朝刊オピニオン面に載った「エコノミスト360°視点~インフレか スタグフレーションか」という記事には色々と気になる点があった。誤りと思える記述もあったので以下の内容で問い合わせを送っている。

夕暮れ時の筑後川

【日経への問い合わせ】

日本経済研究センター理事長 岩田一政様  日本経済新聞社 担当者様

6日の朝刊オピニオン面に岩田様が書いた「エコノミスト360°視点~インフレか スタグフレーションか」という記事についてお尋ねします。問題としたいのは以下のくだりです。

東京などが4回目の緊急事態宣言下にある日本は、2020年度に巨額の補正予算を組んだが、30兆円が次年度に繰り越され、景気過熱とはかけ離れた状況にある。景気の現状は、景気後退下の物価上昇(スタグフレーション)に陥った08年夏ごろまでの時期に似ている。この時、原油価格は140ドルとなり、円安持続もあって物価上昇率は2%に達した。しかし、交易条件悪化により所得が海外に流出したため、収益が圧縮されて景気後退に陥り、インフレ目標達成を喜ぶ声はなかった

日銀が「2%」の「インフレ目標」を設定したのは2013年です。しかし記事では「08年夏ごろ」に「物価上昇率」が「2%に達した」ことに触れて「インフレ目標達成を喜ぶ声はなかった」と記しています。この書き方だと「08年夏ごろ」には「2%」の「インフレ目標」を導入していたと取れます。

08年夏ごろ」に「2%」の「インフレ目標」があったと取れる説明は誤りではありませんか。問題なしとの判断であれば、その根拠も併せて教えてください。

せっかくの機会なので他に気になった点を記しておきます。

まず「インフレか スタグフレーションか」という見出しが引っかかります。記事でも説明しているように「スタグフレーション」は「景気後退下の物価上昇」なので「スタグフレーション」であれば当然に「インフレ」となります。「良いインフレか スタグフレーションか」などとした方が良いでしょう。

さらに言えば、この記事では「(良い)インフレか スタグフレーションか」を論じてはいません。「景気の現状は、景気後退下の物価上昇(スタグフレーション)に陥った08年夏ごろまでの時期に似ている」と述べているだけです。

そもそも「似ている」のかも疑問です。「08年夏ごろ」には「物価上昇率は2%に達した」のに、今年6月の物価上昇率は0.2%でほぼ横ばいです。原油相場は堅調かもしれませんが「スタグフレーション」を心配するような「インフレ」には程遠い状況です。

問い合わせは以上です。「インフレ目標達成を喜ぶ声はなかった」との記述に関しては回答をお願いします。御紙では読者からの間違い指摘を無視する対応が常態化しています。日本を代表する経済メディアとして責任ある行動を心掛けてください。


◇   ◇   ◇


※今回取り上げた記事

https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210806&ng=DGKKZO74534410V00C21A8TCR000


※記事の評価はD(問題あり)

2021年8月4日水曜日

データの扱いに無理がある日経「会社員、平日昼も五輪熱中」

4日の日本経済新聞朝刊ビジネス1面に載った「会社員、平日昼も五輪熱中~野球ドミニカ戦、視聴割合3倍に」という記事はあまり意味がないと感じた。全文を見た上で問題点を指摘したい。

室見川

【日経の記事】

東京五輪のテレビ中継を会社員も平日昼間に自宅観戦していることが調査会社の分析で分かった。人気の野球日本代表戦では、会社員らの視聴割合が通常の約3倍に上昇。女子スケートボードの金メダル獲得でも同様に上昇した。

テレビの視聴動向を調査するTVISION INSIGHTS(ティービジョンインサイツ、東京・千代田)が五輪の中継番組について視聴動向を分析した。消費者の協力のもと家庭のテレビにセンサーをつけ、1時間単位で60秒以上テレビを注視した人の割合を集計した。

7月28日開催の野球の日本対ドミニカ共和国戦では、試合終盤の午後3時台、中継したNHK総合を会社員やパート・アルバイト、自営業者など有職者の5.2%が視聴した。五輪開会前、同時刻同チャンネルの会社員視聴割合が平均1.6%だったのに対し、約3倍に増えた

新種目のスケートボード女子ストリートが行われた26日午後0時台も5.9%に達し、13歳の西矢椛選手が日本史上最年少で金メダルを獲得した午後1時台も4.7%が視聴した。


◇   ◇   ◇


気になった点を列挙してみる?


(1)「会社員、平日昼も五輪熱中」と言える?

会社員の5%が「平日昼も五輪」をテレビ観戦したとしよう。それで「会社員、平日昼も五輪熱中」と言えるのか。裏返せば95%は「平日昼」に「五輪」を見ていない。


(2)最初から分かっていることでは?

記事では「東京五輪のテレビ中継を会社員も平日昼間に自宅観戦していることが調査会社の分析で分かった」と新たな事実を見つけ出したような書き方をしている。「平日昼」に「五輪」をテレビ観戦している「会社員」がある程度いるのは誰でも分かる。それをニュースとして打ち出されても困る。


(3)「会社員」と言い切って大丈夫?

会社員やパート・アルバイト、自営業者など有職者の5.2%が視聴した」というデータだけでは「会社員」の動向はつかめない。なのに表ではこの「5.2%」を「会社員」の数値としている。これは正確さに欠ける。「会社員」に絞った場合、「視聴した」割合が「有職者」全体の「5.2%」を大きく下回っている可能性はある。

記者としては「平日昼間に自宅で五輪を見る会社員など以前はいなかったのに今回は違う」と伝えたかったのだろう。

だとしたら「会社員」限定の数値が欲しい。それをリオデジャネイロ五輪の時などと比較すれば、意味のある記事にできたはずだ。しかし数値は「有職者」全体のもので、しかも「五輪開会前、同時刻同チャンネル」の「視聴割合」との比較。それで「会社員、平日昼も五輪熱中」と打ち出すのは、さすがに無理がある。


※今回取り上げた記事「会社員、平日昼も五輪熱中~野球ドミニカ戦、視聴割合3倍に」https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20210804&ng=DGKKZO74473420T00C21A8TB1000


※記事の評価はD(問題あり)

2021年8月3日火曜日

「無理ゲー社会」で橘玲氏が指摘したMMTの弱点は違うような…

今回も橘玲氏の「無理ゲー社会」という本を取り上げたい。その中で引っかかったのがMMT(現代貨幣理論)に関する記述だ。「この理論の当否は本書では立ち入らない」と橘氏は言うが、その後の内容を見るとMMTに懐疑的なのが分かる。

夕暮れ時の筑後川

まず違うと思えたのが「『増税なしの財政拡張』を唱えるMMTは『そんなことをすれば財政が破綻して年金制度が崩壊する』という批判に極めて脆弱」との説明だ。

MMTは『主権通貨を発行する政府は破産し得ない』とし、アメリカや日本のような主権通貨を持つ国は、(インフレになるまで)無制限に財政を拡張できると主張する」と橘氏も書いている。つまり単純に「増税なしの財政拡張」を唱えている訳ではない。インフレを抑えるためには増税も選択肢になる。なので「『増税なしの財政拡張』を唱えるMMT」という説明は舌足らずだ。

では「増税なしの財政拡張」を続ける前提であれば、「財政が破綻して年金制度が崩壊する」という批判にMMTは「極めて脆弱」と言えるだろうか。

日本は「主権通貨を持つ国」だから、MMTの立場からは「財政が破綻して年金制度が崩壊する」心配は要らないという結論になる。

日本円を創出しているのは政府・日銀だ。金本位制ではないので裏付けとなる資産は必要ないし、創出規模に限界はない。「主権通貨を持つ国」は外貨建ての政府債務に縛られていないので、自国通貨を創出して自国通貨建ての債務を簡単に返済できる。

財政が破綻」しないとしてもハイパーインフレになるのではと心配する向きもあるかもしれない。政府がMMTに基づいて政策を実行するならば、その心配も要らない。MMTはインフレを問題視する。繰り返しになるが、どんな時も「増税なしの財政拡張」を求める訳ではない。インフレを抑えるためには増税や財政支出削減もありとの立場だ。

橘氏の説明とは逆に「『インフレにならない限り増税なしの財政拡張を進めても良い』とするMMTは『そんなことをすれば財政が破綻して年金制度が崩壊する』という批判にも簡単に反論できる」と見るべきではないか。橘氏にはそこも考えてほしい。


※今回取り上げた本「無理ゲー社会


※本の評価はB(優れている)

2021年8月2日月曜日

ベーシックインカム導入を無理筋とみる橘玲氏「無理ゲー社会」に異議あり

橘玲氏の「無理ゲー社会」という本は興味深く読めた。しかし納得できない部分もある。今回は「ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)」の問題を考えてみたい。

夕陽

UBI受給対象者を国民に限定したとしても大きな混乱が予想される。それは、『日本人』の家族をいくらでも増やせるからだ」と橘氏は言う。「アフリカや中南米、東南アジア、南アジア」などで「日本人男性」が現地の女性と結婚して「日本人」の子供を増やしていけば多額の「UBI」が得られると述べた上で、こうした行動に走る「日本人の男が何万人、何十万人と出てきたら、いったいどうなるのか?」と橘氏は問う。そして以下のように結論付けている。

こうした事態を避けようと思えば、誰が『日本人』で誰がそうでないかを厳密に区別するほかない。たとえば国家が『日本人遺伝子』を決めて、それを70%超保有している場合にしかベーシックインカムの支給対象にはしない、とか。これはまさに『優生学』そのもので、UBIの理想が実現すれば、わたしたちは人類史上もっともグロテスクな『排外主義国家』の誕生を目にすることになる

この問題の解決方法はかなり簡単だ。「ベーシックインカムの支給対象」を「日本国籍を有する国内在住の者」と定めれば済む。橘氏が想定するケースでは「日本人男性」が現地女性と結婚して子供を作り続けるので、子供たちもほとんどがその国に住むはずだ。なので「支給対象」から外れていく。

「国内在住」の定義をどうするかという問題はあるが、島国の日本では出入国の管理はかなりやりやすい。例えば、1カ月以上海外に滞在する場合は「支給対象」から外れるようにすれば、海外で生まれて海外で暮らし続ける子供に「ベーシックインカム」を「支給」するケースはほぼなくなるだろう。

もう1つアイデアがある。ITを活用する方法だ。「ベーシックインカム」は各人のスマホやマイナンバーカードに電子マネーのような形で「支給」してはどうか。

この場合、日本国籍を有する全員を「支給対象」としても問題ない。その代わりに電子マネーが使えるのは国内の実店舗のみで有効期限を1カ月などと限定する。

ネット販売には利用できない。他者にスマホやマイナンバーカードを渡しての利用は違法とする。ITを活用すれば「海外にいるはずの人間が国内の実店舗で買い物をしている」と検知できるだろうから、スマホやカードを親戚などに代理利用させるケースもほぼ防げるはずだ。「ベーシックインカム」の有効期間を短くすれば、たまに日本に来て爆買いして帰るといった行動も取れない。

個人的には「ベーシックインカム」を支持している。導入に当たっては、この電子マネー方式で現物支給に近い形にするのが望ましいと見ている。

スーパーでは使えるが、百貨店では使えない。牛丼屋では使えるが高級フランス料理店では使えない。そんな具合だ。線引きの難しさはあるが、贅沢な消費行動には使えないように設計する。

そうなると財源問題もかなり解決する。国民全員に月10万円の電子マネーを支給したとしても、高級品を好む富裕層などには意味のないものになる。有効期限が過ぎれば電子マネーは消失する。実質的には「中低所得層への現物支給」に近い形になる。消失分を考慮すれば、インフレ圧力もかなり抑えられる。それでも、年収や資産に関係なく「支給」するという「ベーシックインカム」の骨組みは守られる。

どうだろうか。本当に「UBIの理想が実現すれば、わたしたちは人類史上もっともグロテスクな『排外主義国家』の誕生を目にすることになる」のか。橘氏には改めて考えてほしい。


※今回取り上げた本「無理ゲー社会


※本の評価はB(優れている)