2019年6月22日土曜日

「がん放置」への批判が雑過ぎる中山祐次郎氏「がん外科医の本音」

本に書いてあることの多くは正しいのだろう。しかし、「がん外科医の本音」という本で著者の中山祐次郎氏が展開した「がん放置」への批判は問題だらけだ。批判するのは構わないが、これだけ中身が雑だと中山氏を医師として信頼しようという気が失せる。
タマホーム スタジアム筑後(福岡県筑後市)
           ※写真と本文は無関係です

『がんは放置すべきか』現場の医者の本音は」というテーマで中山氏は以下のように記している。

【「がん外科医の本音」の内容】

治療について「がんは放置でいい」と断言している人がいますね。ここではっきり言いますが、根拠が弱いためその説は信じるに値しません

たしかに、早期のがんであればほっといても治ることがあるのは事実です。その頻度は不明ですが、そういう論文を目にすることはあります。しかし「非常にまれ」なことです。あなたに起こる保証はどこにもありません。2019年、本書の執筆時点では原則、がんを放置すると治るものも治らなくなります。

今の治療法とは、日本中、世界中の医者が、どんな治療法がいいかをここ何百年ほどずっと悩み、その結果生まれたものです。

まず手術という治療法が生まれました。麻酔技術が未熟だったせいで、痛みが取れなかったり、麻酔薬で患者さんが死亡したりしました。また、感染症に対する知識と理解が足りず、手術後に感染症で亡くなる方も多数いました。大勢の方の犠牲の上に到達したのが今の手術治療です

早期であれば手術で取り切れるので、がんは「治る」時代に入ってきたのです

その一方で、「放置」を信じたせいで進行がんになってから来院した患者さん、病院でがんと診断され、その後「放置」を信じた結果、手がつけられないほど進行してしまった患者さん、こういった方々に、私は幾度となくお会いしてきました

これは犯罪ではないか。

過失致死ではないのか。

私は罪に問えないかといろいろ調べたのですが、あくまで「放置治療を勧める」だけで決めるのは患者さん本人なので、難しいようです。なんとも苦々しい思いで、私はこの主張を見ています

◇   ◇   ◇

問題点を列挙してみる。

その1~なぜ批判対象の名前を出さない?

『がんは放置でいい』と断言している人がいますね」と言うだけで、誰の主張なのか明らかにしていない。これは逃げだ。「放置」論者が中山氏に反論してきても「あなたのことではありません」と弁明できる。しかし、がんの「放置」論者と言えば近藤誠氏の存在感が圧倒的だ。故に名指しせずに近藤氏を実質的に批判できる。このやり方を選んでいる時点で中山氏に対して「なんとも苦々しい思い」になる。

ここでは、中山氏の言う「『がんは放置でいい』と断言している人」とは近藤氏だと仮定して話を進める。


その2~「根拠が弱い」と言える根拠は?

根拠が弱いためその説は信じるに値しません」とは書いているが、なぜ「根拠が弱い」と言えるのかを中山氏は教えてくれない。「これは犯罪ではないか」とまで、がん放置論者を悪く言うのであれば、そこを省略すべきではない。


その3~「がんは放置でいい」をなぜ曲解?

早期のがんであればほっといても治ることがあるのは事実です」「しかし『非常にまれ』なことです」と書いてあると、「がんは放置でいい」と言っている人は「全てのがんは放置していれば自然に治る」と主張しているように受け取る読者もいるだろう。

中山氏はあえて曲解しているのか、本当に分かっていないのか。いずれにしても問題がある。「がんは治療か、放置か、究極対決」という本の中で近藤氏は肺がんに関して以下のように述べている。

いずれにせよ『治療は無意味』というのが僕の基本的な考え方です。たとえば、2センチくらいの大きさでも、80億個くらいのがん細胞が詰まっているわけです。その場合、10%から20%くらいの人たちに、目に見えない転移が潜んでいます。転移があれば治ることがないので治療は無意味。逆に、転移が潜んでいなければ、今後も転移することはありませんから、治療の必要はないんです

近藤氏は「ほっといても治る」から「がんは放置でいい」と主張しているのではない。となると、中山氏の批判は最初からかなり的外れだ。


その4~情緒的な主張に意味ある?

今の治療法とは、日本中、世界中の医者が、どんな治療法がいいかをここ何百年ほどずっと悩み、その結果生まれたものです」「大勢の方の犠牲の上に到達したのが今の手術治療です」と中山氏は訴える。だから「今の手術治療」を信じろと示唆しているのだろうが、情緒的で説得力に欠ける。
筑後広域公園(福岡県筑後市)※写真と本文は無関係です

全体として見れば「治療法」は常に発展途上のはずだ。「ここ何百年ほどずっと悩み、その結果生まれたもの」だから正しいとは限らない。「多くの人が頑張ってきた長い歴史があるんだから信頼できる」といった類の主張に耳を傾ける意味があるだろうか。


その5~「手術」で治してると断言できる?

早期であれば手術で取り切れるので、がんは『治る』時代に入ってきたのです」と断定しているが、根拠は示していない。強いて言えば「大勢の方の犠牲の上に到達したのが今の手術治療」だから「手術」で「治る」となるのか。

ここは「がんは放置でいい」を批判する上での肝だ。近藤氏は前述の本の中で医師の林和彦氏と論戦を展開し、林氏に対して以下のように主張している。

これまで全世界で何億という数の早期がんが発見され治療されているけれども、発見されたあとに転移することが証明できていないし、これからも証明できない、というわけですね。とすれば、手術や検診を正当化する根拠(データ)がないということを認めたことになります。そうであれば、『手術はやめておきましょう』『検診は廃止しましょう』と言うべきでしょう。それを言わずに、がんを見つければ当たり前のように切りまくっている現状は間違っています

「転移があれば手術は無意味。転移がないのならば治療の必要性は少ない(放置でもいい)」としよう。この場合、手術でがんが「治る」とはどういうことか。

転移するがんを見つけて、転移する前に切除し転移を防げるのであれば、喜んで手術を受けたい。

しかし「発見されたあとに転移することが証明できていない」のであれば、無駄な手術をしている可能性がまず残る。それでも有効な手術の可能性の方が圧倒的に高いのであれば、手術に賭けてみたいとは思う。

しかし中山氏も著書の中で「治療をした結果、ある患者さんの中からがんが完全になくなったのかどうかを判定することが不可能に近い」と認めている。

つまり「早期であれば手術で取り切れる」とは言えない。必ず「取り切れたかどうかは不明」という結果になる。なのになぜ「手術で取り切れるので、がんは『治る』」となってしまうのか。「再発しない場合もあるから」と中山氏は言うかもしれないが、それは切除する必要のない早期がんを取っただけではないのか。その疑問に答えないで「放置」を批判しても説得力はない。


その6~放置しなかったら進行がんにならなかった?

その一方で、『放置』を信じたせいで進行がんになってから来院した患者さん、病院でがんと診断され、その後『放置』を信じた結果、手がつけられないほど進行してしまった患者さん、こういった方々に、私は幾度となくお会いしてきました」という説明にも問題を感じる。

放置」せずに治療をしていれば「進行がん」にならずに済んだとの前提を感じるからだ。「早期であれば手術で取り切れる」とは限らないのだから「『放置』を信じた結果、手がつけられないほど進行してしまった患者さん」は手術をしても同じように「進行」していた可能性がある。

発見されたあとに転移することが証明できていない」「手術や検診を正当化する根拠(データ)がない」という近藤氏の主張を信じれば、「手術」をすべきとの主張に根拠はない。中山氏がそれに納得できないのならば、根拠を示して近藤氏の主張を覆すべきだ。今回の著書では、それが全くできていない。

「早期がんの段階で、転移するかしないか、さらには転移前なのか後なのか分かります。転移するタイプで、しかも転移前のがんに限定して手術をしています」「エビデンスとしての信頼度が高いランダム化比較試験で早期がんを手術した人と放置した人を比べると、手術した人の方が圧倒的に長生きできるという結果が出ています」などと中山氏が主張できるのであれば、「放置」への批判が有効になりそうな気はする。

しかし、そうした主張を展開するための根拠がないことを中山氏も知っているのではないか。だから今回のような雑な主張で否定だけは強くしてみたのだと推測している。


※今回取り上げた本「がん外科医の本音


※本の評価はD(問題あり)。中山祐次郎氏への評価もDとする。

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