2015年8月20日木曜日

藤原和博氏への疑問「息子・娘を入れたい学校2015」(1)

ダイヤモンド8月22日号の特集「息子・娘を入れたい学校2015」の最初の記事が「藤原和博さん これからの子供に求められる力って何ですか?」。ダイヤモンドは藤原氏がお気に入りのようだが、この人物の話にはツッコミどころが多い。これには編集側の責任もあると思える。

記事の中で気になった点を具体的に挙げてみよう。

デンハーグ(オランダ)のビネンホフ ※写真と本文は無関係です

【ダイヤモンドの記事】

ところが、21世紀に入ってガラッと状況が変わりました。実際には1997年、山一證券の破綻がその象徴なんですが、「正解が見えない社会」になった。

ここでは、ジグソーパズルの箱に描かれた見本の絵なんてない。レゴブロックを組み合わせて、自分の思うような形を創り上げていかなければならない。あるいは周りの人と議論して、考え方や見方を修正しながら、お互いに「納得解」を探っていく。いわば「情報編集力」が必要となるわけです。

正解がないから、もはや「みんな一緒」なんてことはないし、社会全体が「それぞれ一人一人」という志向に移っています。結婚式の引き出物って昔はみんなに同じものを渡していたけど、最近はカタログを渡して、好きなものを注文してくださいってことになっているでしょ。携帯電話会社も、コンビニも、通販会社も、もうかっている会社は全て、一人一人を相手にしている。その最たる例が米グーグルだったりするわけです。

実はもう一つ、今、教室で起こっているのが、学力の二極化なんです。昔は、できない子、普通の子、できる子の分布は一つの山の形をしていましたが、今はフタコブラクダ。なのに昔と同じように、真ん中に向けて一斉授業をやっても、そこには誰もいないという状況になっている


藤原氏によると、1997年を境に日本社会は「ガラッと」状況が変わったらしい。日経の1面企画などにもよく出てくるが、「××革命が起きて世の中が一変した」といった話は基本的に怪しい。例えば、この記事では「学力格差の時代に一斉授業は無意味」とのイメージ図が付いている。それによると、「1997年までの『みんな一緒』の社会」では学力分布はコブ1つの正規分布型だ。しかし、「1998年からの『それぞれ一人一人』の社会」では、2コブ型の分布になっている。これは日本全国で一斉に起きた変化なのだろう。イメージ図を信じれば、これだけの変化が1~2年で生じたことになる。

常識的に考えれば、これほど急激な変化がわずかな期間に起きることはあり得ない。本当にこうした変化が短期間で起きたのならば、イメージ図ではなく実際のデータで示すべきだろう。藤原氏が「根拠となるデータはない」と言う場合、編集側は記事の構成を考え直す必要がある。

さらに言えば、結婚式の引き出物の話も、例えとして成り立っていない。これは「社会における正解がなくなった例」として出てくる。「昔はみんなに同じものを渡していたけど、最近はカタログを渡して、好きなものを注文してくださいってことになっているでしょ」と藤原氏は説明している。しかし、この場合はむしろ「昔は正解がなかったが、最近はカタログを渡すという正解が見つかった」と考えるべきだ。特定の商品を全員に渡す時には「出席者の多くが喜んでくれる物は何か」などと悩んでしまう。しかし「カタログを渡す」のが通例になってしまえば、こうした悩みはなくなる。

97年までは「みんな一緒」で「何らかの正解」があったが、98年からは全く別の社会になった--。藤原氏が本気でそう考えているのならば、この人の話に耳を傾ける価値はなさそうだ。

「もはや『大衆』と1つには括れない。今は『分衆』の時代だ」と言われたのが85年だ。「みんな一緒」は97年よりずっと前になくなっていたとも主張できる。一方、今でも偏差値の高い大学に入った方が就職には有利だし、普通の中小企業に入るよりは三菱商事や電通で働く方が高収入と安定を期待できる。そういう意味で、「何らかの正解」は今も変わらずあるとの見方も成り立つ。

つまり、97年と98年でガラッと変わるほど社会の状況は単純ではない。社会構造の変化を単純化して語る人の話は信じない方が賢明だ。藤原和博氏も警戒して見るべき語り手の1人と言えるだろう。

※(2)へ続く。

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