2020年12月10日木曜日

「政治家にとってトリアージは禁句」と日経ビジネスで訴える小田嶋隆氏に異議あり

より良い社会を築くためには自由な議論が欠かせない。改めて言うまでもない当然の話だ。しかしコラムニストの小田嶋隆氏は違う考えのようだ。日経ビジネス12月7日号に載った「小田嶋隆の『pie in the sky』~絵に描いた餅ベーション ハードボイルドに酔う見苦しさ」という記事で、同氏は以下のように書いている。

大阪城

【日経ビジネスの記事】

はるか関東から浪速のパンデミックを見て、私が危うさを感じるのは、各種の数字よりは、むしろ彼の地のリーダーの資質に対してだ。

吉村洋文大阪府知事は、感染患者の急拡大を受けて、11月19日「大阪全体で救急病床のトリアージ(選別)をしていく」と述べている。この第一報を読んで、文字通り、驚倒した。

「トリアージ」とは、災害や事故現場で、医療者が「生存可能な患者を優先して治療する生命の選別」を含意する言葉だ。最近では、2008年の秋葉原無差別殺傷事件で、現場に倒れる多数の被害者の救命に当たった医師たちが直面した事態を物語る用語として知られている。いずれにせよ、普通の医療現場の話ではない。言ってみれば「戦場の」「修羅場の」ための言葉だ。

あるいは、トリアージは、テロや災害の現場でのみ想定されている「最悪の事態における最も残酷な決断」で、医療従事者にとってのトロッコ問題に相当すると申し上げてもよい。

とすれば、政治家が安易に口にしてよい言葉ではない。無論、医療崩壊の可能性が囁かれている現在の状況では「もののたとえ」としてさえ禁句であるはずだ。ところが吉村知事は、むしろ得意げにこの言葉を振り回している。まるで「命の選別」という「冷徹な判断」が「政治家だけに許された究極の決断」であるとばかりに、だ。


◎許されない理由がないような…

まず「トリアージは、テロや災害の現場でのみ想定されている『最悪の事態における最も残酷な決断』」という説明が怪しい。千葉県のホームページでは「災害時だけでなく、救急受診した患者さんがたくさんいるときに、診療の優先順位をつけ、緊急度の高い患者さんから診療を行うことを指す場合もあります」と解説している。

トリアージ」という言葉を使うのがいかにダメかを訴えるために小田嶋氏は「トリアージ」の使用範囲を限定したかったのだろう。しかし、少なくとも千葉県の説明とは整合しない。

百歩譲って小田嶋氏の「トリアージ」に関する説明が正しいとしよう。それでも「政治家が口にしてよい言葉」だと思える。理由は2つある。

まず自由な議論が大切だからだ。「トリアージ」が「禁句」となれば、自由な議論への制約となる。罵詈雑言の類を禁じるのならともかく、ものの考え方として役立ちそうな用語まで「禁句」にしていくのは適切なのか。

2番目の理由は「テロや災害の現場」に近付いているからだ。小田嶋氏自身が「医療崩壊の可能性が囁かれている」と「現在の状況」を認識している。

必要な医療を十分に提供できない状況を「医療崩壊」と呼ぶのならば「テロや災害の現場」で「トリアージ」を行っている時には「医療崩壊」が起きている。助かりそうもない人や軽傷者は放置されやすくなる。

医療崩壊の可能性が囁かれている」状況で「トリアージ」の手法を参考に対応策を議論するのは「許される」と言うよりやるべきことだ。医療の供給が難しくなってきた時に「大阪全体で救急病床のトリアージ(選別)をしていく」のは当然ではないか。

誰かを生かすためには、ほかの誰かを殺さなければならないとする前提が、そもそも狂っているということに、できれば、気づいてほしいものだ」と小田嶋氏は記事を締めている。これは前提が違う。「トリアージ」に関しては「誰かを生かすためには、ほかの誰かを放置するしかない状況もあり得るとする前提」だ。

これは「狂っている」のか。「狂っている」から、そういう状況が起きそうな時は考えないことにするのか。議論を封じるのか。声を上げようとする人がいたら「禁句」を作って黙らせるのか。

命を懸けて戦っている兵隊さんがいるのに『降伏』なんて言葉はもののたとえとしてさえ禁句だ」という主張がまかり通って、圧倒的劣勢の中でも「降伏」に関する議論さえしない国があったらどうか。その方が「狂っている」のではないか。そんな国が昔あったような気もするが…。


※今回取り上げた記事「小田嶋隆の『pie in the sky』~絵に描いた餅ベーション ハードボイルドに酔う見苦しさ

https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00106/00093/


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