2021年2月17日水曜日

「マイクロアグレッション」に関する荻上チキ氏の解説に疑問あり

マイクロアグレッション」ーー。面倒な用語がまた出てきた。「~ハラスメント」が氾濫しているのと似たものを感じる。週刊エコノミスト2月23日号に載った「読書日記~差別の実際解き明かす 詳細データと精緻な分析」という記事で評論家の荻上チキ氏がこの問題を取り上げている。当該部分を見てみよう。

夕暮れ時の佐田川

【エコノミストの記事】

優れた本を立て続けに読めた。一冊は『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(デラルド・ウィン・スー著、明石書店、3500円)。最近、さまざまな差別について議論する際、取り上げられることが増えた概念である「マイクロアグレッション」について整理された本だ。  

本書は「マイクロアグレッション」について、「ある人が集団に属していることを理由として、日常的な何気ないやりとりの一瞬の中で受ける中傷的メッセージ」と定義する。女性に対してだけ「ちゃん」付けで話す。タクシーが黒人の客をスルーする。女性の店長に対して「上の人を出して」と要求する。見た目が日本人ぽくないという理由で「日本語が上手ですね」と決めてかかった話しかけをされるといった具合に。しかしこうした言葉は、暗に相手を歓迎せず、格下のように位置付け、侮蔑的な評価を伝えるものだ。こうした言葉をぶつけられる側にとっては、紛れもなく差別体験だと言えるだろう。


◎「一瞬」で判断できる?

マイクロアグレッション」を「ある人が集団に属していることを理由として、日常的な何気ないやりとりの一瞬の中で受ける中傷的メッセージ」と定義した場合、まず該当するかどうかの判断がかなり難しい。

紛れもなく差別体験だと言える」事例として荻上氏は「タクシーが黒人の客をスルーする」ことを挙げている。走っている「タクシー」が手を上げている「黒人の客をスルー」した場合「黒人だからスルーした」とどうやって確認するのか。気付かなかったのかもしれないし「嫌いな知人に顔が似ていたから」といった理由かもしれない。

女性の店長に対して『上の人を出して』と要求する」のも同じだ。「女じゃ話にならん。上の人間を出せ」と言われたのなら「マイクロアグレッション」に該当するだろう。しかし「要求」の主が理由を明示していないのならば判断できない。

女性に対してだけ『ちゃん』付けで話す」に至っては「女性に対してだけ」かどうかを確認するのが容易ではない。例えば職場内でその傾向が確認できたとしても、職場外では男性にも「『ちゃん』付け」している可能性が残る。

それに「女性に対してだけ『ちゃん』付けで話す」としても、それが「中傷的メッセージ」と言い切れるか疑問だ。無人島に同年齢の男女5人が流れ着いた場合を考えてみよう。男性Aは残りの4人をB君、C君、Dちゃん、Eちゃんと読んでいる。敬称が異なる理由は「男は『君』、女は『ちゃん』がしっくり来るから」だとしよう。これは「マイクロアグレッション」と見なされそうだが、そんなに目くじらを立てる問題なのか。しかも一緒に流れ着いた4人全員に「マイクロアグレッション」を仕掛けていることになる。だが、自分の感覚からすると「差別」とは程遠い感じだ。

流れ着いてしばらくすると「C君」が「Cちゃん」に変わったとしよう。理由は「何となく雰囲気的に…」といったものだとする。これで女性に対する「マイクロアグレッション」は解消するのか。そんなものが「差別」なのか疑問だ。

しかし「こうした言葉をぶつけられる側にとっては、紛れもなく差別体験」と荻上氏は言う。無人島の例で言えば、男性は「君」付け、女性は「ちゃん」付けで、誰も「差別」されたと感じずに暮らしている可能性は十分にある。その場合でも性別で敬称が明確に分かれているのは「マイクロアグレッション」だから改善すべきとなるのか。

見た目が日本人ぽくないという理由で『日本語が上手ですね』と決めてかかった話しかけをされる」のも「マイクロアグレッション」らしい。例えば自分がオランダ語を流暢に話せるとして、オランダを訪ねた時に「あなた見た目はアジア系なのにオランダ語が上手ですね」と言われても「差別」は全く感じない。笑って「ありがとう」と返したい。

声をかけてきたオランダ人を「相手を歓迎せず、格下のように位置付け、侮蔑的な評価を伝え」てきた嫌な奴だとは全く思わないだろう。少なくとも相手の悪意を断定するには材料が少な過ぎる。

記事の続きを見ていこう。


【エコノミストの記事】

大袈裟(おおげさ)だと思うだろうか。例えば街を歩いて、誰かと肩がぶつかったとしよう。その一度切りの体験を「暴力だ」とは言い難いかもしれない。しかしそれが、「一日に数回は、誰かにぶつかられる」という経験をしたらどうだろう。しかも、同じような話が、その人と似た属性の人に偏って生じていたとしたら。外を歩くのが嫌になったとしてもおかしくない。そして、例えば女性であるというだけで、街で意図的に誰かにぶつかられたり、キャッチやナンパに捕まる体験は実際にある。


◎大袈裟だと認めているのでは?

自ら挙げた例がどれも「差別」とは言い切れないと荻上氏自身も感じているのだろう。だから「大袈裟だと思うだろうか」と切り出している。「誰かと肩がぶつかった」話によって「紛れもなく差別体験だと言えるだろう」という自らの主張を正当化しようとしている。しかし説明としては苦しい。

街を歩いて、誰かと肩がぶつかった」程度では「暴力」とは感じないのは、その通りだ。個人的には「一日に数回」でも同じだ。それが1週間続いても1カ月続いても「暴力」に変わる時は来ない。

外を歩くのが嫌」になるかもしれないが、自分の場合「同じような話が、その人と似た属性の人に偏って生じて」いるかどうかとは関係ない。「肩がぶつか」ることが、どのくらいの負担かによる。「頻繁にぶつかられる人は年齢性別問わず多いみたいですよ」と言われても「中高年男性に偏っているようです」と言われても「外を歩くのが嫌」になる程度に差はない。

女性であるというだけで、街で意図的に誰かにぶつかられたり」することはあるかもしれないが、それは「男性」にも起こり得る。「一日に数回」の肩の接触が毎日のように起こるのは「女性」が圧倒的に多いのか。あり得ないとは言わないが、都会に住んでいたとしても「一日に数回」も「誰かと肩がぶつか」るケースは男女を問わず極めて稀だと思える。

マイクロアグレッション」を「ある人が集団に属していることを理由として、日常的な何気ないやりとりの一瞬の中で受ける中傷的メッセージ」だとすれば、自分が思い付くのは高齢者に電車内で席を譲ることだ。これは「(高齢者という)集団に属していることを理由として」譲られたと高い確率で分かるし「格下のように位置付け、侮蔑的な評価を伝える」行為だとも解釈できる(受け止め方としてひねくれてはいるが…)。

だからと言って、善意で席を譲っている人たちに「マイクロアグレッション」だからやめろと訴えるべきなのか。また、それが浸透した時に「席を譲ってもらえなくて残念」と考える高齢者もたくさんいるだろう。どちらを優先すべきかという問題も残る。

マイクロアグレッション」ーー。やはり概念として普及しなくていいと思える。


※今回取り上げた記事「読書日記~差別の実際解き明かす 詳細データと精緻な分析」https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210223/se1/00m/020/020000c


※記事の評価はD(問題あり)

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