2016年8月12日金曜日

パルコの「おさらい」だけ? 日経 田中陽編集委員の怠慢

「楽して記事を書いてる」と言うほかない。10日付で日本経済新聞電子版に出ていた「ニュースこう読む~『渋谷パルコ』は本当に戻ってくるのか」は安易な作りが際立っていた。建て替え作業が始まった「渋谷パルコ」を取り上げているのだが、話のほとんどはパルコの歴史の「おさらい」だ。「2019年秋の開業」で渋谷パルコがどう生まれ変わるのかさえ筆者の田中陽編集委員は教えてくれない。
キャナルシティ博多(福岡市博多区) ※写真と本文は無関係です

 「『渋谷パルコ』は本当に戻ってくるのか」という見出しを掲げるのであれば、建て替え後の渋谷パルコが成功するかどうか、田中編集委員ならではの視点で分析してほしかった。しかし、そう期待して読むと完全に裏切られる。記事を読む限り、開業後の戦略について田中編集委員はパルコに取材していないようだ。そして記事ではパルコの歴史を延々と振り返って、申し訳程度に「『渋谷パルコ』は相当生まれ変わらないと、埋もれた存在になってしまうのではないだろうか」と書いて記事を結んでいる。

自由を与えられた編集委員がそれに甘えて怠慢に走るとどうなるのか。今回の記事はその危険性を教えてくれている。

記事の全文は以下の通り。

【日経の記事】

「あれ。もう看板がなくなってる。早いなぁ」。20歳前後とみられる若者の一群が渋谷公園通りで話をしていた。8月8日午前9時前、その前日に43年の歴史の幕をいったん閉じたばかりの渋谷パルコ。早くも建て替えに向けた作業が始まっていて、正面出入り口にあった著名なデザイナー五十嵐威暢氏による「PARCO」の看板は取り外され、もの悲しげだった。ただ、PARCOのRだけはまだ壁の別の場所に掲げられ、ゴジラの手に収まっていた。

7日午後9時すぎから始まった閉店セレモニーで柏本高志店長は「ビルは建て替わるが、パルコの魂は変わらない」と語り、これまでの感謝と2019年秋の開業への意気込みを語った。

だが、本当に「パルコの魂は変わらず」にいられるだろうか。というか、1973年に渋谷パルコが誕生してから90年代半ばまでの「パルコ文化」とも呼ばれた発信力が戻るかどうか。心配だからだ。

ここで少しおさらいをしよう。パルコはもともと京都が発祥の百貨店、丸物が源流にある。各地に店を構えたものの、戦後の高度成長の波にうまく乗れずに地方の名士らによって店の経営は分散していった。その中の一つがパルコとなる池袋の東京丸物。この店はロッキード事件などで注目を集め、「昭和の政商」といわれた小佐野賢治氏を通じてセゾングループ創業者、堤清二氏に売却話が持ち込まれた。60年代後半のことだ。

池袋の西武百貨店に隣接していた東京丸物は当初、ディスカウントストアにする案があったが、若者指向の店として再生を目指した。リスク回避の目的で自らが小売業を運営するのではなく、テナントビルとして生き残ろうとした。テナントからの保証金、家賃で経営するファッションビルと生まれ変わり、成長する。

その拠点が池袋よりも洗練された街だった渋谷。73年に渋谷パルコが生まれた。ちなみにパルコという名前はイタリア語で公園の意味がある。

こうしてみるとパルコはセゾン創業者の堤氏の発案で生まれたものでなく本家筋どころではない。中興の祖、増田通二氏は同社誕生について自書「開幕ベルは鳴った」でこう記している。「面白がること」。その視点が堤氏に受けた。

それまで西武百貨店や西友で大衆消費社会、一億総中流の受け皿としてセゾングループを拡大してきた堤氏にとって新たな顧客層への浸透が図れると読んだのだ。堤氏はオーラルヒストリー「わが記憶、わが記録」の中でパルコについて問われ、「パルコ文化はセゾン文化の中でライトな部分です(中略)サブカルチャー的な部分がパルコ、そういう意識でした」と答えている。そんなパルコが輝いていたのは90年代前半までだと記者は思っている。当初、パルコのテナントオーナー向けに情報提供していた定点観測情報誌「アクロス」は若者の流行を知るためのバイブル的な存在だったが90年代後半に休刊になった。

無謀な不動産投資などで経営危機を迎えたセゾングループは解体へと進み、パルコの筆頭株主は01年に森トラストになる。しかし、パルコ色を残したい経営陣と森トラスト側が対立し、その森トラストは約10年後にイオンと手を組み、パルコの改革に乗り出そうとすると、すでに経済界から身を引いていた堤清二氏が「倫理、良識を欠いている」と激怒。一時期、自らが調整に乗り出そうとした。

しかし、そのころには初期のパルコを知る幹部もほとんど去り、尖(とんが)ったDNAは相当、薄まってしまった。そして今、パルコの大株主は百貨店のJ・フロントリテイリングだ。同社は効率経営で定評があり、やはり、パルコの原点をどこまで引き出せるかは未知数だ。同時に消費者も大きく変わり、パルコへの期待も変質している。43年の歴史の幕をいったん閉じるとなるとどうしてもノスタルジーが頭をもたげてくるからやっかいだ。

小売業が変化対応業といわれることがある。その言葉に従えば、「渋谷パルコ」は相当生まれ変わらないと、埋もれた存在になってしまうのではないだろうか

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日経以外の報道を見ると、パルコの幹部は建て替え後の渋谷パルコの戦略について、あれこれ語っているようだ。まず、そこを記事で紹介しないと「本当に戻ってくるのか」どうかは論じられない。パルコ側が情報を一切出さないとしても、関係者の話などから推測して戦略の是非を論じるのが田中編集委員の仕事だろう。今回、パルコは求めれば取材に応じてくれそうなのに、田中編集委員は労を惜しんで記事を仕上げている。

結局、記事の最初の方で渋谷パルコの建て替え作業と閉店セレモニーに触れ、後は自分の知っている昔話で紙幅を埋めるだけだ。「ここで少しおさらいをしよう」と田中編集委員は書いているが、この大量の「おさらい」を「少し」と言えるのか。後輩記者の手本となるべき編集委員がこれでは困る。猛省を促したい。

※記事の評価はD(問題あり)。田中陽編集委員への評価もDを据え置く。

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