菜の花(福岡県久留米市) ※写真と本文は無関係です |
◆匿名さんのコメント◆
この記事は近藤医師の罪に関しては「前提」としているのでしょ?「これまで語られてきた近藤批判は正しい。だがしかし、、、」というのがこの記事なんだから近藤医師の罪が書かれてないと言われても
◆コメントへの反論◆
東洋経済の記事は「近藤医師の罪」に関して「前提」としているとは思えない。記事の一部を改めて見てみよう。
【東洋経済の記事】
岩田医師は近藤医師が1990年代に展開した主張の例として、1.がんは手術すればよいとは限らない2.抗がん剤を使うとデフォルトで決めるのは間違っている3.がん検診をすれば患者に利益があると決め付けるのは間違っている4.ロジックとデータが大事、統計も大事、という4点を挙げ、「まったく『当たり前』の主張である。現在の日本では『常識』だし、当時だって世界的には普通の考え方だった」と評価する。
そして近藤医師の言説が多くの人の健康と人命をリスクにさらしているという批判は正しいが、「同じことは90年代の日本がん診療界にもあったのではないか。多くの患者が間違ったがん診療のフィロソフィーに苦しめられ、近藤氏がいなかったらもっとたくさんの人たちが不当に苦しんでいたかもしれない」と書く。筆者はこれまで複数のがん専門医や医師から同様の意見を聞いている。
◇ ◇ ◇
記事の筆者の鳥集徹氏は「岩田医師」のブログを紹介する形で、激しい批判にさらされてきた「近藤医師が1990年代に展開した主張」が「まったく『当たり前』の主張」であり「当時だって世界的には普通の考え方だった」と読者に伝えている。
「これまで語られてきた近藤批判は正しい」という「前提」があるどころか「これまで語られてきた近藤批判の多くは的外れ」だと示唆している。なのになぜ「この記事は近藤医師の罪に関しては『前提』としているのでしょ?」となってしまうのか。
百歩譲って「この記事は近藤医師の罪に関しては『前提』としている」としよう。だからと言って「罪」を具体的に説明しなくてもよいとは思えない。個人の名誉に関わるからだ。例えば有罪判決が確定したような事案ならば「罪に関しては『前提』」とするのも理解できる。しかし近藤氏は違う。記事でも「主張の多くに正当性あり」と認めている。
そもそも記事のタイトルが「近藤誠理論の功罪」だ。このタイトルから「罪」は前提で「功」だけ論じると理解する方が無理がある。「どんな『功』があり、一方でどんな『罪』があるのか論じてくれるのだろう」と期待するのが当然だ。
なのに「罪」に関しては具体的な説明が見当たらない。それが「鳥集徹氏の罪」だと投稿で訴えた。やはり罪深い。結論は同じだ。
※今回の件に関しては以下の投稿を参照してほしい。
東洋経済「近藤誠理論の功罪」に感じる鳥集徹氏の罪
https://kagehidehiko.blogspot.com/2018/05/blog-post_21.html
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