2021年10月27日水曜日

具体的提案をなぜ避ける? 日経 井上亮編集委員「皇室は人間が担っている」

小室眞子さん」の結婚に触れて27日の日本経済新聞朝刊社会面に井上亮編集委員が書いた「皇室は人間が担っている」という記事は残念な内容だった。あれこれ現状を嘆くのはいい。しかし「では、どう制度を変えていくべきか」に関して何の提言もない。「他者の立場でこの世界を見て、考える」ことの大事さを説くなとは言わない。しかし、そう訴えるだけでは大きな改善が望めないのも分かるはずだ。

筑後川河口付近

記事の前半を見ていこう。

【日経の記事】

小室眞子さんは「心を守りながら生きる」という言葉を繰り返した。皇族としての義務と制約は定めとして受け入れてきた。しかし、自分の心だけは誰も踏み込めない領域であり、その心に忠実に生きていきたい。そう叫んでいるようだった。

「他者の靴を履く」という英語の慣用句がある。他者の立場でこの世界を見て、考える。そこに相互理解と共感が生まれる。それができない人間は独善と精神的貧困に陥る。

障害者やハンセン病患者、災害被災者、戦没者遺族などに寄り添い、その思いに耳を傾けてきた平成の皇室のあり方は、まさに他者の靴を履くことだった。

その活動を見て、日常では視野に入らなかった社会的弱者、いわれのない差別を受けた人々、困難な状況にあり、悲しみを抱えた存在に気がつき、粛然と襟を正した国民も多かったはずだ。

ひるがえって、国民の側で皇室の人々の身になって「靴を履く」ことを試みた人はどれほどいるだろう。

立場上、さまざまな権利、自由が制限される。会見で「誤った情報」という言葉が何度も出たが、それらに有効な反論もできない。ときに「伝統」のひと言で人間的なものが圧殺されることもある。その苦痛と無念


◎ならば制限を解くべきでは?

個人的には天皇制廃止を支持する。「皇室は人間が担っている」のに「皇室」の一員として生を受けたというだけで「さまざまな権利、自由が制限される」のは理不尽だと感じるからだ。制度を存続させる場合でも、皇室離脱の自由は認めるべきだ。

で、井上編集委員はどうなのか。「皇室の人々」は「さまざまな権利、自由が制限される」とは書いている。しかし「その苦痛と無念」をどう取り除くべきかには言及しない。「皇室の人々」の側からは「有効な反論」ができないのならば、それが可能な仕組みにすればいいではないか。井上編集委員はなぜ、そう訴えないのか。本当に「皇室の人々の身になって」考えているのか。

記事の後半を見ていく。


【日経の記事】

眞子さんが結婚の意思を貫いたのは、小室さんへの愛情は当然のことながら、「皇室から抜け出したい思いが強くあったから」と宮内庁関係者は言う。

皇室の人々は制約された立場ではあるが、それを上回る使命感、やりがいをもって活動を続けてきたと思う。しかし、いまやその境遇はプラスよりもマイナスの要素が上回ってしまったのか。そうしてしまったのは誰なのか。

小室家の金銭問題と秋篠宮家ほか皇室をめぐる報道は、一方の立場に偏したものや臆測に臆測を重ねた根拠不確かなものが多々見られた。それをすべて真に受ける人がいる。さらにその報道に乗る形で情報も知識も持たない"解説者"やタレントなどに無責任な論評をさせるメディアもあった。

そこでは眞子さんの結婚に反対することは「皇室を思うがゆえ」であり、国家のための正義であるかのような主張も見られた。眞子さんが結婚の意思を変えないことを「公より私事を優先させた」と批判し、税金で維持されている皇室の人間にそんな「わがまま」は許されないと言い放つ。

いちど眞子さん、小室さんの「靴」を履いてみてはどうか。自分は耐えられないと思うなら、石を投げることを控えるべきだろう。

眞子さんの結婚で、皇室は人間が担っている制度であることを改めて考えさせられた。常人に耐えがたい制度にしてしまっては、皇室は存続していけるわけがない


◎前から分かっていたことでは?

眞子さんの結婚で、皇室は人間が担っている制度であることを改めて考えさせられた」と井上編集委員は言う。それまではあまり「考え」たことがなかったのだろう。残念な話ではあるが、今回は「改めて考えさせられた」はずだ。なのに改善策は思い付かなかったのか。

皇室の人々」の「境遇はプラスよりもマイナスの要素が上回ってしまった」との前提に立てば、より深刻な立場にあるのは男性皇族だ。「さまざまな権利、自由が制限される」環境から自由に逃げ出せる制度に変えようとなるのが自然ではないか。

常人に耐えがたい制度にしてしまっては、皇室は存続していけるわけがない」と感じているのならば、どういう「制度」が好ましいのかを論じてほしい。もちろん天皇制廃止を訴えてもいい。当たり障りのないことしか書けない編集委員に存在意義はない。

ついでに言うと「いちど眞子さん、小室さんの『靴』を履いてみてはどうか。自分は耐えられないと思うなら、石を投げることを控えるべきだろう」という呼びかけもどうかと思う。「『自分は耐えられ』ると感じるから『石を投げ』ているのだ」と言われたら終わりだ。

眞子さんが結婚の意思を変えないことを『公より私事を優先させた』と批判し、税金で維持されている皇室の人間にそんな『わがまま』は許されないと言い放つ」ことを「石を投げる」行為だと見なすのにも賛成しない。

結婚」は自由にすればいいと思うが、だからと言って「批判」自体を抑え込むべきなのか。井上編集委員は言論の自由をどう考えているのだろう。「公より私事を優先させた」とか「税金で維持されている皇室の人間にそんな『わがまま』は許されない」といったレベルの「批判」でも「石を投げる」行為としてタブー視される社会を望むのか。

そこも考えてほしい。


※記事の評価はD(問題あり)。 井上亮編集委員への評価はDを維持する。井上編集委員に関しては以下の投稿も参照してほしい。

「近代以降の天皇制度で最大級の改革」は日経の「過言」
http://kagehidehiko.blogspot.jp/2016/07/blog-post_14.html

乏しい根拠で週刊誌の皇室報道を貶める日経 井上亮編集委員https://kagehidehiko.blogspot.com/2018/05/blog-post_61.html

男性皇族は「格子なき牢獄」で暮らすべき? 日経 井上亮編集委員に考えてほしいことhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2021/10/blog-post_2.html

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