2020年12月29日火曜日

小田嶋隆氏が日経ビジネスで展開した「コロナ楽観論批判」への「反論」

25日付の日経ビジネス電子版に載った「小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』 ~世間に転がる意味不明~来年が凡庸で退屈な一年でありますように」という記事の後半部分を見ながら問題点をさらに指摘していく。前半部分については以下の投稿を参照してほしい。

根拠示さず小林よしのり氏を否定する小田嶋隆氏の『律義な対応』を検証」https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/12/blog-post_28.html

夕暮れ時の巨瀬川
【日経ビジネスの記事】

新型コロナウイルスについては、まだまだわからないことがたくさんある

その一方で、はっきりとわかってきたこともたくさん出てきている。

無論、医師でもなければ感染症の専門家でもない私が、この問題を自分のアタマでどんなふうに読み解いているのかは、たいした問題ではない。

新型コロナウイルスへの対応のような「深い専門知識と広い視野の両方を持っていないと適切な解答にたどりつけないタイプの問題」については、そもそも「自分の頭」で考えることがむずかしい。

そこで、私は、この種の「自前の見識や思考力だけでは手に負えない論題」については、毎度

「どの専門家の見解を鵜呑みにしたら良いのだろうか」

という視点から対処している。そうすることによって、早呑込みを防ぐとともに、思考を節約している次第だ。

今回の新型コロナ問題について申し上げるなら、私は、この春以来、5人ほどの専門家の著書やツイートやインタビュー記事を参考にしながら、なんとか現状に追随しようと苦闘している。

もっとも、細かいことを言えば、私が信頼を置いているその5人ほどの専門家の間にも、多少の見解の相違はある。じっさい、特定の時期における特定のタームに関しては、正反対の見解が並んで、困惑したこともある。

とはいえ、大筋において、彼らの意見は一致している。

以下、現状の日本における新型コロナ理解のための手引きとして、長らく当欄の担当編集者をしてくれていたY氏が聞き手として編集した書籍をご紹介しておく。私の一押しと考えてもらって良い。

『新型コロナとワクチン 知らないと不都合な真実』峰宗太郎・山中 浩之著(日経プレミアムシリーズ)

というのが、その本だ。

扱っているテーマのバランスの良さや情報の充実度もさることながら、説明の順序や深さがとてもよく考えられている。

どういうことなのかというと、

説明しすぎないこと

断定しすぎないこと

深みにハマりすぎないこと

を注意深く考えた態度に終始しているということだ。

基礎的で大切で見逃してはならない重要なポイントについてだけ、何度も丁寧に、言い方を変えながら解説している。これはなかなかできないことだ。

いったいに、専門家は説明過剰になりがちだ。

知っている知識を全部並べないと気がすまない人も多い。

私自身、自分が多少ともくわしい分野についてはかなり説教くさいオヤジに変貌している自覚がある。

でも、この本は、読者の側が知っておくべきことを、順序正しく知らしめることに専念している。専門家が書いた書籍でこういう内容のものはめずらしい。おそらく聞き手として素人の立場の人間を立てたことが功を奏しているのだと思う。たしかに、ふりかえってみれば、Y氏は、こっちの説明がくどくなると、たちまち退屈そうな顔をしてみせる油断のならない聞き手だった。この種の書籍の進行役としてはまさにうってつけの人材だったわけですね。


◎その方法で大丈夫?

新型コロナウイルス」に関して上記のようなやり方で小田嶋隆氏は正しい判断ができると信じているようだ。同意できない。

まず「どの専門家の見解を鵜呑みにしたら良いのだろうか」というアプローチがダメだ。基本姿勢としては「どの専門家の見解」も「鵜呑み」にすべきではない。「この人はそういう見方なんだなぁ」ぐらいでいい。「新型コロナウイルスについては、まだまだわからないことがたくさんある」のならばなおさらだ。

説明しすぎないこと」「断定しすぎないこと」「深みにハマりすぎないこと」といった条件を満たしているからと言って「5人ほどの専門家」の主張が正しいとは限らない。「断定しすぎないこと」はまだ分かるが「説明しすぎないこと」と「深みにハマりすぎないこと」は正しいかどうかとほぼ無関係だ。

自分ならば「エビデンスに基づいて冷静かつ論理的に自論を展開している人をあくまで暫定的に信じる」といったところだろうか。

説明の順序や深さがとてもよく考えられている」ことは、著者としての優秀さの基準にはなるが、それを「主張がおそらく正しい」と結び付けてしまうのは危険だ。

記事の続きを見ていこう。


【日経ビジネスの記事】

さて、新型コロナについて楽観論を拡散している人たちは

ただの風邪と思って対応した方が害が少ない

「商業メディアは、コロナ脅迫が目先の視聴率や部数に結びつくからということを理由に、大げさに騒ぎ立てている」

「ウイルスの害そのものよりも、ウイルスによる経済の萎縮の害の方が大きい」

「新型コロナウイルスの死者は、例年のインフルエンザウイルス感染による死者よりも少ない」

「コロナ警戒の影響で経済が停滞すれば、食えなくなった商店主や従業員に給与を支給できなくなった経営者の自殺が増える」

「新型コロナウイルスで死ぬ可能性があるのは、ほぼ高齢者と基礎疾患を持つ人々に限られている。ということは、若者や働き盛りの人間に優しいウイルスと見ることも可能だ」

「ウイルス克服の最終シナリオが、集団免疫の獲得であるのだとしたら、時期の違いがあるだけの話で、だとすれば、ロックダウンで経済停滞を招くような小細工をせずに、自然でゆるやかな感染拡大と免疫獲得を待つのが得策だ」

てな調子の、コロナ疲れした人々に俗受けしそうなお話を繰り返している。

ひとつひとつ反論しても良いのだが、細かい論点のやりとりに巻き込まれることは控えようと思っている。なぜというに、「異端の説」は、それを論破するべく議論の対象とすることで、かえって広まってしまう性質を持っているものだからだ。

たとえばの話、「地球は平面だ」でも「月はアルミ製の黄色い円盤だ」でも良いのだが、この種のトンデモな主張は、マトモな人間が大真面目に反論することでいよいよ世間にあまねく知られることになる。しかも、世の中には何パーセントかの割合で「異端の説」を偏愛する人々が暮らしていて、そういう人たちは、言説の妥当性よりは、その独自性に誘引される傾きを持っている。

彼らは、

「自分が凡庸なマスコミ発の情報に踊らされ、退屈きわまりない定説をアタマから信奉してしまっている世俗的で集団主義的で臆病で平凡なあいつらとは違う、孤高で冷徹でユニークでとんがった独自路線の人間であること」

を証明するべく、より信じにくい言説を、アクロバティックな解釈を総動員して信じ込むことを好む。

逆に言えば、

「すんなりと説明されている、誰にでもわかるようなお話」

を、テンからバカにしてかかるわけだ。

コロナ楽観論がどれほどバカげた言説であるのかについては、さきほどご紹介した書籍を読んでもらえば、隅々まで納得できるはずだ。ちなみに私は発売初日にKindle版を手に入れて、その日のうちに読了している。

論争から逃げているように見えてしまうのもシャクなので、あまりにもあたりまえで凡庸なお話ではあるが、以下、「コロナ楽観論」への反論をひととおり書き並べておくことにする。

なお、この反論への反論にはお答えしない。理由はさきほども述べた通り、論争は、もっぱら異端の論を拡散せんとしている崖っぷちの人々の利益にしかならないからだ


◎どっちかにしたら…

論争から逃げているように見えてしまうのもシャク」なので「反論をひととおり書き並べておく」が「反論への反論にはお答えしない」らしい。「論争は、もっぱら異端の論を拡散せんとしている崖っぷちの人々の利益にしかならない」と信じているのならば「シャク」だとしても「論争から逃げ」るべきだ。

逃げているように見えてしまうのもシャク」ならば「反論への反論」にも「お答え」した方がいい。でないと結局は「論争から逃げているように見えてしまう」。「異端の論を拡散」させた上で「論争から逃げているように見えてしまう」やり方をなぜ選ぶのか。

さらに言えば「コロナ楽観論」は正しいかどうかを判定できる類のものではない。「ただの風邪と思って対応した方が害が少ない」かどうかは厳密に言えば検証不可能だ。

2020年を2回やれるのならば厳密な比較実験ができるかもしれないが、無理だ。2021年に「ただの風邪と思って対応」すれば、ある程度の比較はできるが厳密さに欠ける。

」をどう判断するのかも困難を伴う。自殺者についてもコロナ対策との因果関係を正確に判断するのは難しい。

月はアルミ製の黄色い円盤」かどうかと違って「コロナ楽観論」は厳密な検証ができない。それを「異端の説」で「バカげた言説」と斬って捨てるのは感心しない。かつて地動説は「異端の説」とされた。当時、小田嶋氏が生きていれば「バカげた言説」と相手にしなかっただろう。それが正しい態度かどうかは歴史が証明しているのではないか。

記事の続きを見ていく。


【日経ビジネスの記事】

「ゆるやかで自然な感染拡大」などという都合の良い感染形態は存在しない。じっさい、初期対応で放置に近い態度(経済優先のためにロックダウンを回避した)で臨んだスウェーデンは、近隣諸国に比べて人口比で何倍もの死者を出し続け、国王が政府を批判する事態になっている。


◎基準の問題では?

ゆるやかで自然な感染拡大」はある得る。「ゆるやかで自然な感染拡大」をどう定義するかの問題だ。「近隣諸国に比べて人口比で何倍もの死者を出し続け」ていることは「ゆるやかで自然」と矛盾しない。「死者」が多いから「感染拡大」が急だとも言い切れない(可能性は高いだろうが…)。

正確な「感染拡大」の状況が分からないので断定はできないが、日本でも「ゆるやかで自然な感染拡大」が続いていると個人的には見ている。

さらに続きを見ていく。


【日経ビジネスの記事】

「インフルエンザより死者が少ない」というのは、チェリーピッキング(←論者にとって都合の良いデータだけをつまみ食いにする態度)の結果にすぎない。例年と違って、多くの国民がマスク・手洗い・三密回避に気を配っている2020年シーズンのデータを見ると、インフルエンザの感染者は劇的に減少している。新型コロナウイルスが同じ状況下で、感染拡大しつつある現状を見れば、感染力においても、インフルエンザウイルスよりはるかに厄介な相手であることは明白だ。

老人と基礎疾患持ちだけを感染回避させるような小器用な対策は不可能


◎対策は可能では?

人との接触を避ければ「感染回避」の対策になるはずだ。「老人と基礎疾患持ち」で「感染」を恐れる人は実行に移しているのではないか。そんなに難しい話ではない。

さらに見ていく。


【日経ビジネスの記事】

ちなみに指摘しておけば、「基礎疾患を持った人間と老人しか殺さないから優しいウイルスだ」式の立論は、あからさまな優生思想でもあれば、「働き手」となる人間の価値ばかりを高く評価する狂ったネオリベ思想でもある


◎優生思想と関係ある?

優生」とは「良質の遺伝形質を保つようにすること」(デジタル大辞泉)だ。「老人」はこれから子供を作る訳ではないので「優生」とほぼ無関係だ。それに「基礎疾患を持った人間と老人」が邪魔だから「ウイルス」に殺してもらおうと「コロナ楽観論」者が考えている訳でもないだろう。「あからさまな優生思想」という指摘は強引かつ的外れだ。

『働き手』となる人間の価値ばかりを高く評価する狂ったネオリベ思想」という見方もおかしい。「基礎疾患を持った人間と老人」は働いていないとの認識なのか。多くの「働き手」がいるはずだ。

個人的には「子供や若者がほとんど死なないという点で新型コロナウイルスは優しいウイルス」だと思っている。「老人」より子供を守ってあげたい。しかし子供は現時点で「働き手」ではない。将来の「働き手」だから助けたい訳でもない。まだ十分に人生を謳歌していないと思うから優先的に守ってあげたい。それは「『働き手』となる人間の価値ばかりを高く評価する狂ったネオリベ思想」なのか。

ようやく記事の終盤に来た。


【日経ビジネスの記事】

集団免疫の獲得が最終的な着地点であるのだとしても、それを「国民の多数派が感染すること」によって達成するのは、「棄民シナリオ」にほかならない。凡庸な言い方になるが、人々の活動を制御することを通じて感染をコントロールし、医療崩壊を回避しながら、ワクチン接種の効果を待つのが、最も穏当な集団免疫獲得のロードマップということになろう。

常識は、多くの場合、凡庸なものだ。

真実もまた、そのほとんどは凡庸に見える

来年が凡庸で退屈な一年になるようお祈りして、本年最後のごあいさつに代えたい。

よいお年を。


◎なぜ「棄民シナリオ」?

集団免疫の獲得が最終的な着地点であるのだとしても、それを『国民の多数派が感染すること』によって達成するのは、『棄民シナリオ』にほかならない」と主張する理由が分からない。

ワクチン」がない状態を考えてみよう。徐々に感染が広がり、最終的には「集団免疫の獲得」となる。それを「棄民シナリオ」とするならば、厳しい行動制限を課して感染のスピードを抑えたとしても「国民の多数派が感染すること」によって「集団免疫の獲得」に至るのは同じだから、やはり「棄民シナリオ」だ。

有効かつ安全な「ワクチン」があるのに使わないという主張に対して「棄民シナリオ」だと言うのはまだ分かる。しかし小田嶋氏が紹介した「コロナ楽観論」の主張の中に、そうした内容は見当たらない。

真実もまた、そのほとんどは凡庸に見える」というくだりに注文を付けておく。「真実もまた、そのほとんどは凡庸に見える」とは思わないが、とりあえず受け入れてみよう。ただし「だから凡庸に見えるものが真実だ」とは言えない。なので正しさを判断する時に「凡庸に見える」かどうかを考えても意味はない。

人々の活動を制御することを通じて感染をコントロールし、医療崩壊を回避しながら、ワクチン接種の効果を待つのが、最も穏当な集団免疫獲得のロードマップということになろう」と小田嶋氏は結論を導いているが、問題はどの程度「人々の活動を制御する」のかだ。

ロックダウンと呼ばれるようなやり方で「人々の活動を制御する」のならば「最も穏当」とは言い難い。「なるべくマスクをしましょうね」ぐらいの話で終わるのならば確かに「穏当」だが、これだと「コロナ楽観論」の主張と変わらなくなる。

この反論への反論にはお答えしない」と小田嶋氏は宣言したので、「お答え」になってしまうような主張は一切できなくなった。本当にこの宣言を遵守するのならば、悪くないのかもしれない。小田嶋氏は「コロナ楽観論」に関する「論争」に参加すべき人物ではない。「コロナ楽観論」は「バカげた言説」だと信じたままでいいので、「論争」からは距離を置いてほしい。


※今回取り上げた記事「小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』 ~世間に転がる意味不明~来年が凡庸で退屈な一年でありますように

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00100/


※記事の評価はE(大いに問題あり)。小田嶋隆氏に関しては以下の投稿も参照してほしい。

どうした小田嶋隆氏? 日経ビジネス「盛るのは土くらいに」
http://kagehidehiko.blogspot.com/2016/09/blog-post_25.html

山口敬之氏の問題「テレビ各局がほぼ黙殺」は言い過ぎ
http://kagehidehiko.blogspot.com/2017/06/blog-post_10.html

小田嶋隆氏の「大手商業メディア」批判に感じる矛盾
http://kagehidehiko.blogspot.com/2018/02/blog-post_12.html

杉田議員LGBT問題で「生産性」を誤解した小田嶋隆氏
https://kagehidehiko.blogspot.com/2018/07/lgbt.html

「ちょうどいいブスのススメ」は本ならOKに説得力欠く小田嶋隆氏
https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/01/ok.html

リツイート訴訟「逃げ」が残念な日経ビジネス「小田嶋隆のpie in the sky」
https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/09/pie-in-sky.html

「退出」すべきは小田嶋隆氏の方では…と感じた日経ビジネスの記事https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/10/blog-post_16.html

「政治家にとってトリアージは禁句」と日経ビジネスで訴える小田嶋隆氏に異議ありhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2020/12/blog-post_10.html

「利他的」な人だけワクチンを接種? 小田嶋隆氏の衰えが気になる日経ビジネスのコラムhttps://kagehidehiko.blogspot.com/2020/12/blog-post_15.html

根拠示さず小林よしのり氏を否定する小田嶋隆氏の「律義な対応」を検証https://kagehidehiko.blogspot.com/2020/12/blog-post_28.html

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