2022年10月11日火曜日

「アンコンシャス・バイアス」解き放つべきは日経 高橋里奈記者の「思い込み」では?

アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」ーー。この言葉を使って女性問題を論じている記事に説得力を感じたことがない。10日の日本経済新聞朝刊女性面に高橋里奈記者が書いた「私の『思い込み』解き放つ」という記事もそうだ。高橋記者には「アンコンシャス・バイアス」に関する自らの「思い込み」を解き放ってほしい。

宮島連絡船

中身を見ながら具体的に記事の問題点をしてきしていく。

【日経の記事】

だが女性自身にも「夫には大黒柱でいてほしい」「子どもができたら育休を長く取るのは母である私であるべきだ」といったアンコンシャス・バイアスが、自らはしごを壊している面もありそうだ。

内閣府が2021年に実施した「性別による無意識の思い込み」調査によると、「男性は仕事をして家計を支えるべきだ」と答えた女性は47%に上る。「育児期間中の女性は重要な仕事を担当すべきではない」、「家事・育児は女性がすべきだ」という女性も2~3割いた。男女間での役割分業意識は女性の中にも根強い。


◎「無意識」になってる?

内閣府」の「調査」にも問題はあるが、それをそのまま紹介する高橋記者は何も疑問を感じなかったのか。

男性は仕事をして家計を支えるべきだ」と答えた「女性」には「男性は仕事をして家計を支えるべきだ」という「無意識の偏見」はない。「無意識」ならば「男性は仕事をして家計を支えるべきだ」との回答はできない。なのに、なぜ「無意識」と見るのか。

男性は仕事をして家計を支えるべきではない」と答えたのに実際の行動では「男性は仕事をして家計を支えるべきだ」との前提で判断しているといった事例があれば「無意識の偏見」と言うのもまだ分かるが…。

さらに言えば「男性は仕事をして家計を支えるべきだ」という考えは「偏見」ではない。事実に反しているのならば「偏見」に当たるが「男性は仕事をして家計を支えるべきだ」というのは価値観の話。これを「偏見」と見る場合「男性も女性も仕事をして家計を支えるべきだ」といった考えを「偏見」と見なす主張も成り立つはずだ。

さらに見ていこう。


【日経の記事】

こうした意識はなぜ生まれるのか。「アンコンシャス・バイアスは相手だけでなく、自分に対するものもある」と主張してきたアンコンシャスバイアス研究所(東京・港)の守屋智敬代表理事は、「過去の経験や見聞きしたことによって影響を受け培われるもので、自己防衛本能により生まれる」と説く。

「自分に対するアンコンシャス・バイアスは、自分の可能性を狭める」ものでもある。困難を伴う挑戦はしないほうが居心地はよいかもしれない。だが思考や行動を変えると「見える世界も変わり未来も変わる」と守屋氏は訴える。

例えば「育児中だから出張が多いこの仕事は私には無理」と頭ごなしに決めつける思考は自分の可能性を限定すると守屋氏は指摘する。「本当に無理なのか、思い込みではないのか」と振り返ってみる。「自らに疑問を持ち、どうしたら実現できるか、上司やパートナーと相談することが大事」とアドバイスする。従来の考え方を変えてみようとする、少しでも周囲に相談してみる、という一歩が思い込みから抜け出し新たな飛躍への突破口になる。


◎またまたおかしな話が…

自分に対するアンコンシャス・バイアスは、自分の可能性を狭める」ものなのか。ならば「自分にできないことなんてない。自分は全知全能の存在だ」といった類の「アンコンシャス・バイアス」は存在しないのか。だとしたら、なぜ「自分の可能性」を広げる方向には働かないのだろう。

育児中だから出張が多いこの仕事は私には無理」と「頭ごなしに決めつける思考」を「アンコンシャス・バイアス」と見なすのも苦しい。この場合も「無意識」とは考えにくいし「偏見」とも言い難い。「育児」と「この仕事」の兼ね合いではないのか。

例えば「年間20回程度の海外出張がある『この仕事』を6歳3歳1歳の3人の『育児』と両立させるのは難しい。夫は長期入院中だし他に頼れる人もいないし…」などと考える人は「アンコンシャス・バイアス」に囚われているのだろうか。

アンコンシャス・バイアス」は巷に溢れていると「アンコンシャスバイアス研究所(東京・港)の守屋智敬代表理事」が訴えるのは立場上当たり前かもしれない。高橋記者はそこを差し引いて考えているのか。

記事に付けた「あなたにあてはまる?性別に関するアンコンシャス・バイアスの実例」は出所が「アンコンシャスバイアス研究所の守屋智敬代表理事」となっている。その事例もやはりおかしい。

例えば「『私は主夫です』と聞くと、なんで?と、とっさに思う」のはなぜ「アンコンシャス・バイアス」に当たるのか。まず「無意識」が確認できない。

自分は「男性が当たり前に専業主夫になれる社会になれば良いのに…」と思っているが「『私は主夫(ここでは専業主夫と仮定)です』と聞くと、なんで?」とは聞きたくなる。それは「なかなかなれない専業主夫になれたのはなんで?(どんな状況だったから、それを実現できた?)」との趣旨だ。これは「偏見」なのか。極めて事例が少ないものに接した場合「なんで?」と思うのは当たり前だ。

例えばスキージャンプ日本代表選手の出身地が沖縄県だったら「なんで?」と思うのは当然。「スキージャンプの選手は基本的に雪国出身」との認識があるからだが別に「偏見」ではない。「スキージャンプの選手は雪国出身でないとなれないので沖縄出身という経歴は虚偽に決まっている」などと言い出せば「偏見」だろうが…

この記事の関連記事の中で「職場では男性の上司の考えが変わらないと前には進まない」と高橋記者は言い切っている。この考えの方が「偏見」と言える。

まず「職場」に「男性の上司」がいるとは限らない。また「男性の上司の考えが変わらない」場合でも「」に進む場合は十分にあり得る。例えば従業員の女性比率が高まることを「前に進む」と見る場合、「部下にするなら男性がいいなあ」という「男性の上司の考え」が変わらなくても、男性の採用が難しく結果的に女性の部下が増えてしまう事態はあり得る。

職場では男性の上司の考えが変わらないと前には進まない」と思い込むのは「アンコンシャス・バイアス」には当たらないのか。当たらないとすれば、今回の記事で挙げた事例は本当に「アンコンシャス・バイアス」に該当するのか。高橋記者には改めて考えてほしい。


※今回取り上げた記事「私の『思い込み』解き放つ」https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20221010&ng=DGKKZO64964760X01C22A0TY5000


※記事の評価はD(問題あり)。高橋里奈記者への評価はCからDへ引き下げる。高橋記者に関しては以下の投稿も参照してほしい。

日経の高橋里奈記者 「スタバ」で触れていない肝心なこと
http://kagehidehiko.blogspot.jp/2016/07/blog-post_13.html

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