日本経済新聞の梶原誠編集委員が17日朝刊 投資情報面に書いた「
一目均衡~一角獣が生まれた年」という記事は過去の記事内容の使い回しであることを「ネタに困って自己複製に走る日経 梶原誠編集委員」で取り上げた。梶原編集委員には他にも流用疑惑がある。2012~14年にかけて日経には非常に似た内容の記事が3回載っている。それらを並べてみよう。
【一目均衡~シフの日記は訴える(2012年6月26日朝刊)】 ※筆者は梶原誠編集委員
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合所ダム かわせみ広場(福岡県うきは市)
※写真と本文は無関係です |
米ハーバード大の図書館が、貴重な文書を保管している。「ジョン・シフの日本旅行メモ」。1960年5月、当時の米大手投資銀行、クーン・ローブの経営者が残した日記だ。
シフは他のウォール街のトップらとともに、日本の財界に招かれた。日立製作所、東京電力、八幡製鉄(現新日本製鉄)、三菱造船(現三菱重工業)……。11日間をかけ、当時の基幹産業を訪問している。
財界の狙いは資本の調達だ。「東京近郊の産業地域に、有料道路をつくりたい。500万ドルを米株式市場で調達できないか」。東京急行電鉄を率いる五島昇は、シフに迫った。
戦後15年。日本はインフラ整備の資金にも事欠いていた。シフに同行した夫人は、狭くて穴だらけの道に驚いている。日露戦争の費用を提供したジェイコブ・シフの孫でもあるシフに、日本の人々は期待した。
シフが、日記の最後で下した結論はこうだ。「日本を助けるべきだ」
弱点も指摘した。多くの企業が債務過多。研究開発も初期段階で、事務処理もそろばんが主流だ。それでも日本の復活を信じた理由は、次の一言に集約される。「日本は生活水準を高めるために、世界の市場で競争すると決断した」
株式市場も呼応した。伝説の米投資家、ジョン・テンプルトンが日本株の大量買いに動いたのは60年代。外国人の保有比率は、60年の1.3%を底に長期的な上昇軌道に乗った。
シフの日記とその後の市場が訴えるのは、マネーが競争から逃げない企業を信用するという事実だ。
だからこそ先月、米国での講演でウォール街の大物が語った一言は意味を持つ。「日本企業は外国勢との競争に目覚めた」。52年前のシフと重なる発言の主は、米大手投資会社、コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)を率いるヘンリー・クラビス氏だ。
「企業トップが、海外に活路を求めて積極的に行動している。決断も以前よりはるかに速い」。同氏は発言の真意を今明かす。
トムソン・ロイターによれば、今年の世界のM&A(合併・買収)のうち、日本企業が絡んだ比率は7.2%。3.6%だった2007年の2倍に増えた。欧州危機で世界の経営者心理は凍りついたが、日本企業は外国企業の買収を軸に攻めの経営を続けている。
そんな成長の芽に、株式市場がまだ疑心暗鬼なのは株価のもたつきが示す通りだ。クラビス氏もまた、死角に気づいている。「政府が民間の妨げになるかもしれない」と。
震災後にスピード復興を遂げた企業と原発政策の迷走。「民高政低」は世界に知れ渡った。今も、政治の混迷が政策の停滞を招く恐れはくすぶったままだ。
シフはこうも書き残している。「あえて言えば、政府は慎重。ビジネスマンがもっとも有能だ」。官民が力を合わせたその後の高度成長で、シフの見立ては外れた。今回はどうか。
【十字路~ウォール街が見た1960年の日本(2013年9月20日夕刊)】
道は狭く、穴だらけだ。人々は洋服を着ていたが、げたを履いていた――。1960年、東京を訪れた米投資銀行家、ジョン・シフ(04~87)は日記に書き残している。日露戦争の戦費を調達して日本を勝利に導いたジェイコブ・シフの孫。資本不足に悩む日本の経済界が期待を込めて招いたウォール街からの視察団の一員だった。電力会社や鉄鋼メーカーといった視察先ではもちろん、ホテルの部屋にも企業のトップが続々と訪れて、事業の拡張計画を訴えた。東急グループを率いる当時43歳の五島昇も、そんな経済人の一人だ。「東京の近郊に有料道路を造りたい。500万ドルを米株式市場で調達できないか」と迫った。
10日間の視察を終えた後、シフは総括している。「戦争に敗れた日本は、国民の生活水準を高めるために、今度は世界の市場で戦い、勝とうと決意した」。同時に、資本調達に協力する姿勢も固めている。「資本を得れば日本企業は強力になり、我々は墓穴を掘ることになるかもしれない。だが我々が出さなくても誰かが資本を出し、日本企業は世界でのし上がるだろう」と。
当時1%台にすぎなかった外国人投資家の持ち株比率も、約1000円だった日経平均株価も、その後長期的に上昇していく。ウォール街は、日本企業が競争から逃げずに戦う姿勢を買った。戦後わずか15年後の日本と今の日本とを単純には比較できない。だが、ファイティングポーズを取るか取らないかで企業を選別する投資家の姿勢は、昔も今も変わるまい。
株高をけん引してきた外国人の買いが勢いを落としている。企業は株高や円安に安心して競争を避けていないか、政府は規制緩和に尻込みして企業の競争を阻んでいないか――。点検すべき課題のキーワードは「競争」に違いない。シフが訪日した60年は、64年の東京五輪の開催を決めた翌年。元気だった日本から学ぶことは多い。(尼)
【十字路~経済で戦うと決めた日(2014年8月6日夕刊)】
1945年8月6日、広島に原爆が投下された。壊滅的な被害をもたらし、日本の敗戦は確定的になった。日本が経済で戦うと決めた原点ともいえるだろう。少なくとも米ウォール街の大物バンカーは、そうとらえていた。ジョン・シフ(1904~87年)。名門投資銀行、クーン・ローブを率いた人物だ。
シフは戦後15年にあたる60年、10日間かけて日本の主要企業を視察。旅行記をこう締めくくった。「日本は戦争に負け、9000万人の国民を養う土地が得られなかった。だから人々は、生活水準を高めるために、世界の市場で競争して勝つ決心をした」。祖父のジェイコブ・シフは、日露戦争で日本に資金を提供して戦勝に導いた金融家。そんな祖父を持つだけに「軍事から経済へ」という変化が印象深かったのだろう。日本は経済で戦うとシフに思わせたのは、「政府が保守的なのに対し、ビジネスマンの競争意識が高い」と感じたほどの、企業の攻めの姿勢だった。「そろばんが依然事務の主流だが、企業の競争意識は自動化を促すだろう」とも予想している。
60年といえば、64年の東京五輪開催を決めた翌年。五輪に向けた高揚感は、2020年の東京五輪を昨年決めた今の日本にも通じる。だからこそ、54年前と今の違いも目に付く。「攻め」の主体が政府である点だ。アベノミクスにしても、安倍晋三首相が海外に日本製品を売り込むトップセールスにしても、主役は政府。肝心の企業が戦う姿勢を見せないと、シフのような海外マネーは日本の変化を信じないだろう。シフが東京に滞在中、ホテルの部屋に東京急行電鉄を率いていた五島昇が訪れた。東京近郊に有料道路を造るので、資金の手当てに協力してほしいと頼み込んだ。資金不足の当時と違い、今の日本企業には空前の現金が眠っている。戦うための条件に不足はないはずだ。(尼)
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夕刊の「
十字路」に関しては、筆者が梶原編集委員だという証拠はない。別人の可能性も残る。ただ、状況証拠から判断すると、3つの記事の筆者が同一人物である可能性は高い。まず、梶原編集委員は「自分の記事の使い回し」を今年に入ってもしている。それに「
十字路」の筆者が別人の場合、同じ日経から“盗用”を試みるのは危険すぎる。内容が偶然に重なったとの可能性も低いし、“盗用”の場合、それを「
十字路」で再利用するのも不自然だ。
この件では、2014年の記事が出た時点で担当の日経証券部デスクにメールで問い合わせた。このメールは梶原編集委員にも同時に送っている。以下はその一部だ。
【証券部デスクに送ったメール】
「シフが訪日した時の話を紹介して、最後に現在の日本と絡めて記事を締める」というパターンは2つの記事に共通している。掲載の間隔は1年にも満たないのだから、筆者は確信犯的にシフの話を使い回したのだろう。同じコラムということを考慮すると、「尼」氏が書き手としてのモラル(あるいは基礎的能力)をかなり失っているのは間違いない。ちなみに上記の「十字路」は2012年6月26日の「一目均衡:シフの日記は訴える(筆者は梶原誠編集委員)」ともかなりの部分が重なっている(注:「尼」氏と梶原編集委員の関係はこちらでは分からない)。今回の件を問題なしとして見過ごした場合、その事実を読者が知ったらどう思うだろうか? そういう視点で自分が何をなすべきか考えてほしい。
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この問い合わせに対しては「シフの資料を読者に伝えていくのは重要だと判断しています」といった趣旨の返信が証券部デスクからあっただけだ。梶原編集委員は無反応だった。つまり、担当デスクも梶原編集委員も「『十字路』と『一目均衡』の筆者は別人」とは訴えていない。これも状況証拠の1つに加えられる。
実際どうなのかは、社内で調べればすぐ分かる。いずれにせよ、梶原編集委員に自分の記事を使い回す傾向があるのは間違いない。だとすれば日経の編集局の幹部が何をなすべきかは自明なはずだが…。
※梶原編集委員については「日経 梶原誠編集委員に感じる限界」「読む方も辛い 日経 梶原誠編集委員の『一目均衡』」「日経 梶原誠編集委員の『一目均衡』に見えるご都合主義」「ネタに困って自己複製に走る日経 梶原誠編集委員」も参照してほしい。