コラムニストの小田嶋隆氏がやはり苦しい。日経ビジネス10月25日号に載った「小田嶋隆の『pie in the sky』 絵に描いた餅べーション~サムライたちに授ける秘策」では、かなり的外れサッカー論を展開している。中身を見ながら具体的に指摘したい。
コスモスパーク北野 |
【日経ビジネスの記事】
サッカーワールドカップ(W杯)アジア最終予選の日本対オーストラリア戦を見た。勝ったことはもちろんめでたいが、中継自体が扇情的な演出に終始しているのは残念だった。さらに悲しかったのは、「サムライブルー」という愛称がいまだに使われていたことだ。
問題は語感ではない。内容だ。
われら令和の世に生きる日本人にとって、「サムライ」という言葉のイメージとは、弁解をしない、自己犠牲の権化、所属する組織が犯した過ちであってもその責を甘んじて受け、上の人間から発せられた指示や命令が理不尽であっても粛々と服従し、組織が一丸となって戦う際には無言の部品として働き、自己都合や個人的な見解やプライベートな事情にとらわれることを退け、常に「お家」「公」「藩」のために尽くすことを最上の規範、プライドの基盤とする、挙げてみればそんなところだろうか。
◎そんなイメージある?
自分も「令和の世に生きる日本人」の1人だが「サムライ=常に『お家』『公』『藩』のために尽くすことを最上の規範、プライドの基盤とする」というイメージはない。「日本人」が「サムライ」と聞いてイメージしやすい人物としては坂本龍馬や西郷隆盛あたりか。
坂本龍馬は脱藩しているし、西郷隆盛も島津家や薩摩藩に「尽くすことを最上の規範」としていたとは考えにくい。薩摩の国父と言われた島津久光とは対立関係にあったと伝えられている。
続きを見ていこう。
【日経ビジネスの記事】
集団の成員として望ましい点も多いようではある。ならば、日本代表がサムライを名乗ってもよさそうだ。
だが、サッカーは実は個人のスポーツである。
11人の選手は、それぞれ信じるところに従って戦い、その結果として、たまたま「チームプレー」が生まれる。そんなものだと私は思っている。
このスポーツに興味がない方のために言葉を足せば、実力通りの結果に終わらない番狂わせ、いわゆる「ジャイアントキリング」がサッカーには多い。そこが野球と違う。試合時間が長く、フィールドが広く、選手も多いことで、まぐれの要素が大きく影響するためだろう。実際、豪州戦でも明らかに相手のほうが「いいゲーム」をしていた。だが、オウンゴールで勝利は日本のものとなった。
◎それを言い出せば…
「サッカーは実は個人のスポーツである」と小田嶋氏は言うが、その根拠は記事を読んでもよく分からない。「選手」が「それぞれ信じるところに従って」戦うケースはどんなチームスポーツにもあるだろう。そこが根拠になるならば、全てのスポーツは「個人のスポーツである」。「サッカー」を特別視する理由はない。
「『ジャイアントキリング』がサッカーには多い。そこが野球と違う。試合時間が長く、フィールドが広く、選手も多いことで、まぐれの要素が大きく影響するためだろう」という解説も解せない。
まず「試合時間」は明らかに「野球」の方が長い。「フィールド」も「野球」の方が広いようだ。
そもそも「試合時間」に関しては短い方が「ジャイアントキリング」を起こしやすいはずだ。対戦が長引くほど結果は実力通りになってくる。
例えば小田嶋氏がクイズ王とクイズ対決するとして、問題の数を1つに絞るのと100にするのでは、どちらが「ジャイアントキリング」を期待できるだろうか。少し考えれば分かるはずだ。
サッカーで「ジャイアントキリング」が起きやすいのは、得点がなかなか入らないからではないか。ついでに言えば「ジャイアントキリング」は「野球」の方が起きやすそうな気もする。プロ野球では最下位チームが首位のチームに勝つことは珍しくない。投手の出来が試合結果を大きく左右するからだ。統計的な裏付けを持っている訳ではないが…。
続きを見ていく。
【日経ビジネス】
偶然が支配しがちなゲームであるサッカーに、サムライが向かないと思うのは、「一つになろう」とするからだ。勝っているうちはまだいいが、相手に突き放されると、全員が「もうだめだ」と思ってしまう。そうなるとサムライたちは、最後まで自らの分を守り、負けるべくして負ける戦い方を続け、敗北の美しさに殉じて「一丸となって玉砕」しようとし始めるのだ。われら日本人が「サムライ」という言葉を口に出すとき、すでにして敗戦処理は始まっている。
◎話が違ってきてない?
「サムライ」は「相手に突き放されると、全員が『もうだめだ』と思ってしまう」らしい。「組織が一丸となって戦う際には無言の部品として働き、自己都合や個人的な見解やプライベートな事情にとらわれることを退け、常に『お家』『公』『藩』のために尽くすことを最上の規範、プライドの基盤とする」のが「サムライ」ではないのか。
「日本代表として勝利をつかみ取れ」と指示を受ければ「個人的な見解」に「とらわれることを退け」て代表チームのために「尽くす」はずだ。なのに、なぜ「一丸となって玉砕」しようとするのか。
百歩譲ってそういう傾向があるとしても、対策は簡単だ。「『一丸となって玉砕』などと考えるな。最後まで勝利を信じて戦え」と監督が指示を出せばいい。「サムライ」は「上の人間から発せられた指示や命令が理不尽であっても粛々と服従」するのだから「諦めずに戦え」と言われて諦めるはずがない。
しかし小田嶋氏の対策はむしろ逆だ。
【日経ビジネスの記事】
サッカーに大事なのは不協和音であり、「オレはオレのやりたいことをやる」選手なのだ。彼らは戦況がどんなに絶望的だろうがおかまいなしに、一人でも相手ラインを突破しようと試み、監督から怒られようが嫌われようが気にしない。というか、監督の言うことを素直に聞くようでは、多分サッカーには向いていない。
森保監督は人格者だし、指導者としての能力も高いと本当に思う。だからこそ、選手たちが「この監督のために」とか考えて、余計にサムライになってしまう気がする。今必要なのは「言ってることがまったく理解できない」と、選手が開き直らざるを得ないくらい、高圧的で非論理的な監督ではないか。前から言っているのだが、イタリアのその辺のレストランから、頑固なシェフを引っこ抜いてチームを任せては、と、これも結構本気で思っている。
◎サッカーを理解してる?
「彼らは戦況がどんなに絶望的だろうがおかまいなしに、一人でも相手ラインを突破しようと試み、監督から怒られようが嫌われようが気にしない」という説明が引っかかった。自分もサッカーに詳しい訳ではないが、小田嶋氏はそれ以上に分かっていないのではないか。
「戦況」が「絶望的」な時。例えば5点差を付けられていて残り時間5分だとしよう。その時に「一人でも相手ラインを突破しようと試み」ても「監督から怒られ」る可能性は低いだろう。ごく当たり前のプレーだ。
1点差で勝っていて残り時間が少なく「ボールを保持して時間を稼げ」と指示が出ている時に「一人でも相手ラインを突破しようと試み」てボールを奪われれば「監督から怒られ」る恐れは十分にある。そんな選手がいれば、カウンターからの失点を許して勝利を逃してしまう可能性が高まるからだ。
「サッカーに大事なのは不協和音であり、『オレはオレのやりたいことをやる』選手」だと小田嶋氏は言う。「『オレはオレのやりたいことをやる』選手」だけでチームを構成すると本当に勝利の確率を高められるのだろうか。
そんなに単純なものではない気がする。
※今回取り上げた記事「小田嶋隆の『pie in the sky』 絵に描いた餅べーション~サムライたちに授ける秘策」
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00106/00135/
※記事の評価はE(大いに問題あり)
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