日蓮聖人銅像護持教会(福岡市) ※写真と本文は無関係です |
【東洋経済の記事】
健康診断で訪れた近所の病院で不思議な光景に出くわしました。80歳前後と思われるかくしゃくとしたおじいさんが受付で「もう知り合いが誰もいなくなった」「ひとりだと待っている間がつまらない。疲れてしまう」と愚痴ると、女性スタッフが「寂しいこと言わないでよ。健康なうちは頑張って来ようね」と大声で励ましていました。この2人の会話に多くの患者の目が集まりました。健康なのに病院? 後でスタッフに尋ねたところ、長年通っている常連さんで、年齢相応に健康だそうです。「病院へ通うことができるのは健康な証拠」というのは、なんとも皮肉です。無駄なクスリ、医療は身近にあふれています。
◎だったら自分は?
「健康なのに病院?」と思った山田編集長には「健康ならば病院に来る必要はない」との前提があるのだろう。しかし自分は「近所の病院」を「健康診断で訪れた」のではないか。「健康診断」は「健康」な人でも受けるものだ。「健康なのに病院」がそれほど「不思議な光景」でないのは我が身を振り返れば分かるはずだ。
「無駄なクスリ、医療は身近にあふれて」いるとは思う。しかし「80歳前後と思われるかくしゃくとしたおじいさん」の例からは何とも言えない。例えば「体に何の異常がなくても暇つぶしのために毎週、病院を訪れる」などと書いてあれば別だが…。
推測だが「女性スタッフ」が発した「健康なうちは」という言葉は「体が動くうちは」といった趣旨ではないのか。「年齢相応に健康」も「日常生活には支障がない状態」といったところだろう。仮に「80歳前後と思われるかくしゃくとしたおじいさん」が高血圧の治療薬を処方されていたとしても、他に問題がなければ「年齢相応に健康」と言ってもいいのではないか。
「80歳前後と思われるかくしゃくとしたおじいさん」を「無駄なクスリ、医療」の象徴として取り上げるには材料不足だ。それなのに「『病院へ通うことができるのは健康な証拠』というのは、なんとも皮肉です」と書いてしまう山田編集長の判断力に不安を感じる。
※今回取り上げた記事「編集部から」
※記事の評価はD(問題あり)。ミス握りつぶしの罪を重く見て、山田俊浩編集長への評価はF(根本的な欠陥あり)とする。
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