2019年12月17日火曜日

日経「ダイバーシティ進化論」巡り説明責任 果たした出口治明APU学長

16日の日本経済新聞朝刊女性面に載った「ダイバーシティ進化論~女性縛り付ける国の制度 『働く個人』前提にすべき」という記事で「働かない方が得だ」とすべきところが「働かない方が特だ」となっていた。この件を立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明氏に直接問い合わせたところ「校正ミスです」との回答を得た。

日経にもほぼ同じ内容の問い合わせを送っている。女性面編集長の中村奈都子氏がどう対応するのか注目したい。

記事に関して、他の部分でも出口氏とのやり取りがあったので、その内容も紹介したい。


【出口氏への問い合わせと回答】

せっかくの機会ですので、記事に関して気になった点を述べておきます。まず前半部分です。

女性が社会で活躍することを妨げている大きな要因の1つに国の制度がある。具体的には、専業主婦世帯の課税所得を圧縮する『配偶者控除』と、専業主婦に対して国民年金の負担をゼロにする『第3号被保険者』制度だ。こんな制度があれば、無意識のうちに『控除の上限を超えて働いたら損だ』、『保険料を払わなくていいから働かない方が得だ』と考えてしまう。『女性も仕事を持つべきだ』という主張に対し『女性自身が必ずしも働きたいとは思っていない』と反論する人がいる。だがこうした制度や、解消しない待機児童問題などが存在する社会に身を置けば、『働くことは現実にしんどいから働かない方が特だ』と考えるのは自然だろう。制度が女性を家庭に縛り付け、人々の意識をゆがめる方向に働いていると考える

配偶者控除」と「第3号被保険者」は「専業主婦世帯」だけでなく「専業主夫世帯」にも適用されます。なのになぜ「制度が女性を家庭に縛り付け」となってしまうのですか。



※出口氏のコメント「歴史的経緯を考えるべきでは?



全体として見て、女性も男性も労働意欲に差がないと仮定します。そして「こうした制度や、解消しない待機児童問題などが存在する社会に身を置けば、『働くことは現実にしんどいから働かない方が得だ』と考えるのは自然(※誤字は修正しました)」だとしましょう。となると働かずに済む「専業主婦」や「専業主夫」を目指す人が出てきそうです。男女の労働意欲などの条件に差がない場合、「専業主婦」と「専業主夫」はほぼ同人数になるでしょう。なのに実際は「専業主婦」の人数が圧倒的に多いはずです。

配偶者控除」が適用されるのは「専業主婦」世帯だけで「専業主夫」世帯は対象外となっているのならば分かります。ですが、そうではありません。となると「労働意欲に差がない」との前提が間違っている可能性を考えたくなります。

推測ですが「働くことは現実にしんどいから働かない方が得だ」と考える人の割合に男女差はそれほどないでしょう。ただ、男性には「しんどくても働け」という社会的圧力が強いので「専業主夫」が少なくなっているのではありませんか。裏返せば「専業主婦」の方が多いのは、女性にそうした圧力が小さいからだと思えます。つまり共同体意識的な面で「女性に優しい(男性に厳しい)社会」だから「専業主夫」が少なく「専業主婦」が多いと感じます。男女を平等に扱っている場合、「制度が女性を家庭に縛り付け」ていると見るのは無理があります。



※出口氏のコメント「女性に優しい社会の根拠は?ジェンダー指数を始めとして、あらゆるデータは、わが国が女性に厳しい社会である事を示していると思います



記事の終盤にも引っかかる記述がありました。

CMや商品パンフレットで、働く夫と専業主婦の妻、子供2人という家族モデルが標準として広く使われていることも問題だ。モデルが広まると、それに当てはまらない人が挙証責任を負うのだ。1人の人はなぜ結婚しないのか、カップルの人はなぜ子供を産まないのかと。大きなお世話だ。今や単身世帯は4人世帯より圧倒的に多い。本当に良い社会を作ろうと思うなら、標準モデルは男女を問わず"働く個人"であるべきだ。もちろん同性や異性のパートナーと一緒に生活したり、子供がいたりするケースもあるだろうが、原則は個人。原則と例外を何にするかは、社会を形作る上で大きな意味を持つのだ

モデルが広まると、それに当てはまらない人が挙証責任を負うのだ」と記した上で、そうした状況に関して「大きなお世話だ」と出口様は訴えています。なのに「標準モデルは男女を問わず"働く個人"であるべきだ」と主張するのは解せません。それが「標準モデル」になれば「働かない個人」が「なぜ働かないのか」と「挙証責任を負う」のではありませんか。それは「大きなお世話」ではないのですか。


※出口氏のコメント「ホモ・サピエンスの歴史を見ると、男女を問わず働くことが普通であることがよくわかると思います。標準モデルは、例外ではなく、原則をモデルとすべきです


結婚しない」のも「子供を産まない」のも自由だが、働かないのはダメというのが出口様の考えなのですか。「宝くじで2億円を得たので、後は働かずにのんびり暮らしたい」といった生き方は「標準モデル」から外れるので「挙証責任を負う」べきなのですか。だとしたら、その線引きはかなり恣意的です。


◇   ◇   ◇


出口氏のコメントに対しては以下のように返信した。

【出口氏への返信とそれに対する出口氏のコメント】

まず「歴史的経緯を考えるべきでは?」についてです。これは趣旨がよく分かりませんでした。もう少し具体的でないと「考えるべき」かどうか判断できません。手掛かりが乏しい中であれこれ考えてみましたが「歴史的経緯を考えるべき」だとは思えませんでした。



※出口氏のコメント「戦後の製造業の工場モデルが、女性は家庭、という性分業をもたらし、こういった制度が作られたのです



次に「女性に優しい社会の根拠は?ジェンダー指数を始めとして、あらゆるデータは、わが国が女性に厳しい社会である事を示していると思います」についてです。

本当に「あらゆるデータは、わが国が女性に厳しい社会である事を示している」でしょうか。例えば「世界幸福度調査」はどうでしょう。日本は「男性よりも女性のほうが幸福度が高く、その差が世界一」(文春オンライン)だそうです。

出口様に関係の深い「大学」で見たらどうでしょう。日本では、男性に門戸を開いている国立大学と、女性に門戸を開いている国立大学、どちらが多いと思いますか。言うまでもなく後者です。公的な大学教育に関しても「男性に厳しい」面があります。



※出口氏のコメント「この二つの例外で、賃金格差やジェンダー指数など数々のファクトが覆るとは、到底思えません



最後に「ホモ・サピエンスの歴史を見ると、男女を問わず働くことが普通であることがよくわかると思います。標準モデルは、例外ではなく、原則をモデルとすべきです」についてです。

標準モデルは、例外ではなく、原則をモデルとすべきです」については「標準モデルは、例外ではなく、多数派をモデルとすべきです」との趣旨だとしましょう。その場合、「働く夫と専業主婦の妻、子供2人という家族モデル」が多数派であれば「標準モデル」として良いとの立場なのですか。「当てはまらない人が挙証責任を負う」ので好ましくないと記事で訴えたのではありませんか。

なのになぜ「標準モデルは男女を問わず"働く個人"であるべきだ」とのなるのかというのが私の疑問です。この「モデル」でも「当てはまらない人が挙証責任を負う」のは同じです。出口様のコメントは私の疑問に答えていないと思えます。



※出口氏のコメント「標準モデルは、規範性をも持つべきです



さらに言えば、「ホモ・サピエンスの歴史」全体を見て「標準モデル」を考えるのですか。であれば「子育てを主に女性が担う」のも「ホモ・サピエンスの歴史」では「普通」だったと思えます。それを前提に今の社会の「標準モデル」を作るべきでしょうか。前述の「歴史的経緯を考えるべき」とも絡みますが、ここで「ホモ・サピエンスの歴史」を考慮する必要があるとは思えません。時代の変化に応じて、今の状況に最適な「標準モデル」を考えるのが合理的ではありませんか。



※出口氏のコメント「子育ては、社会全体で担ってきたのが、ホモ・サピエンスの歴史です

◇   ◇   ◇


これに対して以下の内容でさらに返信した。

【出口氏への返信】

まず「戦後の製造業の工場モデルが、女性は家庭、という性分業をもたらし、こういった制度が作られたのです」についてです。

制度が女性を家庭に縛り付け」ているかどうかを判断するのに「歴史的経緯」を考慮する必要はなさそうだと感じました。仮に「戦後の製造業の工場モデルが、女性は家庭、という性分業をもたらし、こういった制度が作られ」たとしても、それが今も「女性を家庭に縛り付け」ているかどうかは、やはり別問題でしょう。

次に「この二つの例外で、賃金格差やジェンダー指数など数々のファクトが覆るとは、到底思えません」についてです。

あらゆるデータは、わが国が女性に厳しい社会である事を示している」と言えないのは納得していただけたと思います。因みに「例外」かどうかは微妙です。例えば、私はシネコンで映画を観るたびに「女性はレディースデーに割引が受けられていいなぁ」と感じます。ジェントルマンデーはもちろんありません。

何を重視するかで判断は変わるでしょうが、私から見ると日本は明らかに「女性に優しい(男性に厳しい)社会」です。「今の日本に生まれてくるならば男と女のどちらを選ぶか」と聞かれたら、迷うことなく「女」と答えます。

それに同意してほしいとは思いませんが、出口様の記事には決め付けが過ぎる印象はあります。「あらゆるデータは、わが国が女性に厳しい社会である事を示している」と認識していては、的確な分析は難しいでしょう。

最後に「子育ては、社会全体で担ってきたのが、ホモ・サピエンスの歴史です」についてです。

子育てを社会全体で担う」と「子育てを主に女性が担う」は矛盾しません。両立します。出口様も「ホモ・サピエンスの歴史では、子育てを主に男性が担ってきた(あるいは、半々で担ってきた)」とは思わないでしょう。

それに、出口様の見解に従うと「戦後の製造業の工場モデルが、女性は家庭、という性分業をもたらし」という説明も好ましくないのではありませんか。戦後の日本では全体として見れば、男女が力を合わせて「家庭」を支えてきたはずです。「女性は家庭」とも限りません。例えば、私の母親は定年までフルタイムで働いていました。昭和の日本社会で多数派ではなかったものの、極めて稀な存在でもありませんでした。


◇   ◇   ◇


記事に関するやり取りはここまで。

標準モデルは、規範性をも持つべきです」についてはコメントするのを忘れていたので捕捉したい。

記事では「モデルが広まると、それに当てはまらない人が挙証責任を負うのだ。1人の人はなぜ結婚しないのか、カップルの人はなぜ子供を産まないのかと。大きなお世話だ」と書いていた。

標準モデルは、規範性をも持つべきです」というのが「それに当てはまらない人が挙証責任を負う」のは当然との趣旨ならば「大きなお世話だ」との主張と整合しない。

ただ、今回は「出口氏が説明責任を果たしたこと」を高く評価したい。問題点を指摘されても逃げずに向き合う書き手であれば、記事の質的向上も期待できる。


※今回取り上げた記事「ダイバーシティ進化論~女性縛り付ける国の制度 『働く個人』前提にすべき
https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20191216&ng=DGKKZO53320930T11C19A2TY5000


※記事の評価はD(問題あり)。出口治明氏への評価はDで据え置くが、強含みと言える。出口氏に関しては以下の投稿も参照してほしい。

女性「クオータ制」は素晴らしい? 日経女性面記事への疑問
https://kagehidehiko.blogspot.com/2017/04/blog-post_18.html

「ベンチがアホ」を江本氏は「監督に言った」? 出口治明氏の誤解
https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/07/blog-post_2.html

「他者の説明責任に厳しく自分に甘く」が残念な出口治明APU学長
https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/07/apu.html

日経で「少子化の原因は男女差別」と断定した出口治明APU学長の誤解
https://kagehidehiko.blogspot.com/2019/08/apu.html

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