2018年4月20日金曜日

東芝新会長「おしゃべり車谷」への個人攻撃が苦しいFACTA

最近のFACTAは品のない個人攻撃が目立つ。それでも説得力があればまだいい。5月号に載った「『おしゃべり車谷』東芝新会長に異名」という記事では、東芝の会長兼CEOに就いた車谷暢昭氏に関して「策士策に溺れる『黒歴史』があることを忘れてはならない」と訴えているが、中身を見てみるとかなり無理がある。
南蔵院の釈迦涅槃像(福岡県篠栗町)※写真と本文は無関係

記事の最初の方を見てみよう。

【FACTAの記事】

経営再建中の東芝は、またしても外部の人材に自らの命運を委ねることになった。経団連会長を務めた石坂泰三、土光敏夫らに続いて、メーンバンクである三井住友銀行出身の車谷暢昭(60)を招いたのである。

車谷が東芝の会長兼CEOに内定した2月14日の記者会見は、そのセリフが笑わせた。いわく「大仕事を拝命することは一つの天命」、いわく「まさに男子の本懐」。口だけは達者な彼らしいが、人間としての器量は、とても石坂や土光に及ばない。車谷には、策士策に溺れる「黒歴史」があることを忘れてはならない

「おしゃべり車谷」――。彼は三井住友銀行内で、そう呼ばれてきた。MOF担など霞が関の省庁ロビイングを長くつかさどり、口は達者だが、銀行マンとしての実務経験は乏しい。そんな現場を知らない御殿女中が、東芝の最高経営責任者になったのである。



◎男性の車谷氏が「御殿女中」?

まず引っかかったのが、車谷氏を「現場を知らない御殿女中」としている点だ。「御殿女中」の意味を調べると「1 江戸時代、宮中・将軍家・大名などの奥向きに仕えた女中。奥女中。2 陰険な策謀を巡らして人を陥れようとする女、底意地の悪い女のたとえ」(デジタル大辞泉)と出てくる。

記事の筆者は「車谷氏=陰険な策謀を巡らして人を陥れようとする女、底意地の悪い女」と捉えているのだろう。だが、車谷氏は男性だ。例えとして適切ではないし、「女性」として扱うのは事実に反する上に失礼だ。

記事では車谷氏に関して「人間としての器量は、とても石坂や土光に及ばない」とも書いている。「人間としての器量」を断じるなとは言わないが、主観的要素が強い問題なので慎重ではあるべきだ。今回の場合で言えば「石坂や土光」の「器量」を具体的に説明した上で、車谷氏の「器量」と比較すべきだ。

だが、記事に「石坂や土光」の「器量」に関する具体的な記述はない。それで「人間としての器量は、とても石坂や土光に及ばない」と断定するのは感心しない。

車谷氏が「人間としての器量は、とても石坂や土光に及ばない」と言われる理由は「策士策に溺れる『黒歴史』がある」からだと解釈できる。次はその「黒歴史」を検証してみよう。

【FACTAの記事】

現場業務を知らない社内官僚の彼の綻びは、意外に早く訪れた。経営企画部門に復命して手掛けた大技が、傘下の証券業務の強化だったが、それで大失敗を犯したのである。旧住銀の親密証券会社であった大和証券と袂を分かったのだ。

山一証券が破綻し、証券界が危機にさらされた1997年、西川善文は住銀の親密先だった大和証券の救済に乗り出し、大和の法人部門を分社化させて住銀との合弁会社にすることに成功した。「大和SMBC」となった同社は、三井住友の別動隊といわれるほど強い絆で結ばれた

車谷がこんな「銀証提携」をさらに強化できる好機と思ったのが、リーマン・ショックである。欧米の金融コングロマリットが、軒並み破綻の危機に瀕するなか、米シティグループは系列化していた日興コーディアル証券と日興シティグループ証券を売りに出した。これを取り込もうと動いたのが、奥、國部毅、車谷のラインだった

だが、大和の原良也や鈴木茂晴にとって、兜町で覇を競い合ってきた日興と経営統合することは、まったく寝耳に水。「日興コーディアルを売るというので入札に参加したら、日興シティも売ると言われました。そこで守秘義務契約を結んだため、大和に教えることができませんでした」。大和との離縁を発表した記者会見で、奥はそう釈明した。大和と日興を統合して野村証券を追うのが、奥や國部、車谷の描いた構想だったが、小(日興)を取ったところ、反発した大(大和)を失う最悪の事態に陥ったのである。「國部も車谷も傲慢そのもの。俺たちのことを『どうせ、ついてくる』と見下していた」。大和の当時の幹部は、そんな不満を吐露していた。

経営企画担当時代にそんな大失敗をしでかした車谷だったが、大和喪失の一件には奥も國部も共犯関係にあったため、さしたるおとがめはなかった。


◎これで「策士策に溺れる」?

この「銀証提携」の件が「策士策に溺れる」例だと思われる。だが、いくつも疑問が浮かぶ。まず、車谷氏が「」を考えたのだろうか。記事には「米シティグループは系列化していた日興コーディアル証券と日興シティグループ証券を売りに出した。これを取り込もうと動いたのが、奥、國部毅、車谷のラインだった」とは書いてあるが、車谷氏が「」を考えたとは言っていない。
宇佐神宮(大分県宇佐市)※写真と本文は無関係です

仮に「奥、國部毅」から買収の話を聞いて「好機と思った」だけならば、車谷氏を「策士」と呼ぶのは無理がある。

小(日興)を取ったところ、反発した大(大和)を失う最悪の事態に陥った」との解説も話を単純化しすぎている。「大和SMBC」への三井住友の出資比率は40%だったはずだ。出資比率で言えば「大和」に主導権があった。

主導権を握れない「大(大和)」よりも、自分たちの思い通りに動かせる「小(日興)」の方が好ましいとの考え方は成り立つ。

さらに言えば、「『大和SMBC』となった同社は、三井住友の別動隊といわれるほど強い絆で結ばれた」との説明も鵜呑みにはできない。2009年9月15日付の日経ビジネスは以下のように書いている。

【日経ビジネスの記事】

提携関係については温度差があり、これまでも度々揺れ動いてきた。2006年の追加分も含め約2000億円を出資した三井住友FGは、法人部門の主導権だけでなく、いずれは大和グループ全体との経営統合を視野に入れていた。これに対し、大和側の認識は「確かにあの時は助けられた。しかし今はそれ以上でもそれ以下でもない」(幹部)という程度だった。

◇   ◇   ◇

FACTAの説明だと「強い絆で結ばれた」大和との関係を「策士」である車谷氏が壊してしまったように見える。日経ビジネスの見方が正しいと言える材料を持っている訳ではないが、FACTAの話を全面的に信じる気にもなれない。総合的に判断すると、「大和喪失の一件」を「大失敗をしでかした」あるいは「策士策に溺れる」と評するのは、かなり大げさに思える。

もう1つの事例も見てみよう。

【FACTAの記事】

この後、車谷の名前を決定的に高めたのは福島第一原発事故が起きた11年である。震災直後に当時全銀協会長で三井住友頭取だった奥は、松永和夫経産事務次官と密談。東京電力を破綻させない言質を取った上で、東電救済のための巨額融資を実行した。このあと三井住友の車谷が立案したという触れ込みで、後の原子力損害賠償支援機構創設を見込んだ「東電救済スキーム」がマスコミに出回るが、それは役所が立案中のプランを先んじて換骨奪胎し、あたかも自分が考え出したようにカンニングしたものだった。

いまをときめく森信親金融庁長官は周囲にこう漏らしていたという。「車谷がしきりに相談に来るので、産業再生機構設立準備室で一緒だった経産省の山下隆一君が資源エネルギー庁で担当していると伝えたところ、彼が山下君のところに日参して立案中のプランをパクった」と。


◎「策」がはまっているような…

この件が「車谷の名前を決定的に高めた」のであれば、「策士策に溺れる」の逆で見事に策が機能したのではないか。記事が言うように「あたかも自分が考え出したようにカンニングした」のだとしても「策士」の面目躍如だ。

結局、車谷氏に関して「策士策に溺れる」感じはあまりない。それを「『黒歴史』がある」などと言って人間性に問題があるような書き方をして恥ずかしくないのか。車谷氏の「人間としての器量」を問うほど、自分たちにメディアとしての「器量」があるのか、改めてよく考えてほしい。


※今回取り上げた記事「『おしゃべり車谷』東芝新会長に異名
https://facta.co.jp/article/201805010.html


※記事の評価はD(問題あり)。

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