2017年11月14日火曜日

「女性主人公の映画は圧倒的に少ない」と山内マリコ氏は言うが…

小説家の山内マリコ氏が13日の日本経済新聞夕刊ナビ面に書いた「プロムナード~フィクションの功罪」という記事は、かなり偏見に満ちた内容だった。小学生の時から映画を「浴びるように観ていた」山内氏によると、映画に関しては「女性が主人公の作品も、女性監督も、圧倒的に少ない」らしい。だが、「女性監督」はともかく「女性が主人公の作品」は珍しくない。映画を「浴びるように観ていた」中に「風と共に去りぬ」「サウンド・オブ・ミュージック」「エイリアン」などは入っていなかったのか。映画に詳しくない自分でも「女性が主人公の作品」はいくらでも挙げられるのに…。
ゆめタウン久留米と筑後川(福岡県久留米市)
         ※写真と本文は無関係です

記事で関連する部分を見てみよう。

【日経の記事】

1990年代、映画雑誌をめくると、タランティーノ作品などを手がけ躍進した大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏の写真を、しょっちゅう目にした。

あるときはアカデミー賞の壇上で、あるときは有名女優とのツーショットで。強大な権力を手にした社会的地位のある中年男性と、若く美しい女優。セクシズム(性差別)溢(あふ)れるその構図に、当時中学生だった私は、特に疑問は感じなかった。だって、世の中そんなものだから。

そんなものとは、権力は常に男性側にあり、若く美しい女性は、なんというか、そういう存在に「すり寄る」ものなのだという認識のこと。でも、ついこの間までランドセルを背負っていた小娘に、いつそんなことが刷り込まれたのか?

浴びるように観(み)ていた映画の影響も、少なからずあるだろう。実人生での経験値の少なさを、人は映画や小説、ドラマなどのフィクションを通して追体験し、補う。それも本人はそれと気づかぬうちに。無意識に「世の中そんなもの」と呑(の)み込んで、学習している場合が多い。

たとえばこんな物語。主人公は社会的に成功した中年男性、そこに若く美しい女性が登場する。知り合ったのは女性が働くバー。彼女は生活費を稼ぐために、そこでバイトしているという。仕事の斡旋(あっせん)をちらつかせ、主人公は食事をご馳走(ちそう)しようと申し出る。女性は断らない。自分に気があるようだ。主人公は女性をベッドに誘う。女性は断らない。

なぜ断らないのか。これが男性を主人公にした、フィクションだからだ。男性を主人公にしている以上、男の気持ちを主観的に描く。だからカメラは女性の感情を掬(すく)おうとしない。女性は本音を語らない。語らせてもらえないのだ

そのような物語を、子どもだった私は知らぬ間に、自分の中に取り込んでいたらしい。主に男性の主観が正義として描かれる物語を。その蓄積が、「世の中そんなもの」につながったのだろう。言うまでもなく女性が主人公の作品も、女性監督も、圧倒的に少ない

経験を重ねた今は、男性作者が自分に都合良く描き、登場人物の女性を搾取するだけのフィクションは、どんな古典名作であっても腹が立つようになった。

◇   ◇   ◇

上記のくだりには「女性が主人公の作品」以外にも色々と疑問を感じた。列挙してみる。


◎疑問その1~並んだだけで「性差別」?

山内氏によると「強大な権力を手にした社会的地位のある中年男性と、若く美しい女優」は「ツーショット」になるだけで「セクシズム(性差別)溢れる」構図になるらしい。どこが差別なのか謎だ。これが差別ならば、「強大な権力を手にした社会的地位のある中年男性」が「若く美しい女優」と結婚する場合は大変だ。「ツーショット」自体が「性差別」なので、披露宴などは避ける必要がある。「女優」のファンに写真を撮られては、これも「性差別」になるので、2人での外出もままならない。本当に「性差別」ならばだが…。
キリンビール福岡工場(朝倉市)
       ※写真と本文は無関係です


◎疑問その2~現実世界を見なかった?

権力は常に男性側にあり、若く美しい女性は、なんというか、そういう存在に『すり寄る』ものなのだという認識」を山内氏は中学生の時には持っていたという。それを「映画の影響も、少なからずある」と推測している。

山内氏は現実世界を見ない子供だったのか。例えば英国では1979~90年に女性のサッチャーが首相を務めている。これだけでも「権力は常に男性側にあり」が誤りだと分かる。フィクションの世界でもそうだ。映画「エイリアン」の女性主人公を見て「女性」を「そういう存在に『すり寄る』ものなのだ」と認識するのは、かなり難しい。


◎疑問その3~「こんな物語」は存在する?

山内氏は自分への刷り込みの原因を映画に求め、「たとえばこんな物語」とストーリーを展開する。だが、この「物語」は実在するのか。山内氏の紹介するストーリーが映画の本筋ならば、映画として成立するかどうか怪しい。刷り込みは山内氏が小学生の時なので「主人公は女性をベッドに誘う。女性は断らない」というストーリーの映画を本当に観ていたのかとの疑問も残る。

「いや。そういう映画はある」と言うのならば、具体的に作品名を挙げるべきだ。「だからカメラは女性の感情を掬(すく)おうとしない。女性は本音を語らない。語らせてもらえないのだ」と山内氏は映画の内容を批判するが、作品名を伏せたままでは本当にそうなのか検証のしようがない。

そもそも、「男性を主人公にした、フィクション」だから「カメラは女性の感情を掬(すく)おうとしない。女性は本音を語らない。語らせてもらえない」という認識は正しくない。例えば「ローマの休日」では男性の新聞記者が主人公だが、恋愛関係になる王女の「感情」を映画の中でしっかり掬っているし王女の「本音」も語らせている。

百歩譲って、山内氏の言うような作品があったとしても、そうではない作品も数多くあったはずだ。映画を「浴びるように観ていた」山内氏が、なぜ「そうではない作品」からの影響を排除して「女性は本音を語らない。語らせてもらえない」作品からの影響だけを受けてしまったのか謎だ。


※今回取り上げた記事「プロムナード~フィクションの功罪
https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20171113&ng=DGKKZO23241250Y7A101C1NZ1P00


※記事の評価はD(問題あり)。山内マリコ氏への評価も暫定でDとする。

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