田主丸大塚古墳(福岡県久留米市) ※写真と本文は無関係です |
記事に疑念を抱いたのは冒頭部分からだ。
【日経の記事】
慶応大学はいまの日本でもっとも都会的な感じがする大学のひとつだが、その創立者・福沢諭吉は大阪弁だった。
◎大阪弁は「非都会的」?
上記の書き方からは「大阪弁≠都会的」との前提を感じる。しかし、大阪(少なくとも大阪市)は疑う余地のない大都会だ。門井氏は「都会=東京」とでも思っているのだろうか。
さて、問題の部分を見ていこう。
【日経の記事】
もともと大坂の生まれなのである。諭吉の父は豊前中津藩の下級藩士だが、鴻池、加島屋(かじまや)といったような豪商に藩が莫大な借金をしている、その事務のため、ながらく大坂の蔵屋敷に勤番していた。この父は、諭吉が3歳のときに病死した。
一家そろって中津へ帰ると、中津の人が、
「そうじゃちこ」
と言うところを、福沢家の人々は、
「そうでおます」
と言ったので話が通じなかったと諭吉自身、のちに『福翁自伝』で回想している。あるいは諭吉少年はいじめられたかもしれない。青年となり、ふたたび大坂へ出て緒方洪庵の適塾に入ったときのあの魚が水を得たような生活ぶりは、むろん向学心もあったにしろ、一種、帰郷のよろこびも大きかったのではないか。ざっくり言うと、慶応大学は、大阪弁でつくられた大学なのだ。
◎「慶応大学は、大阪弁でつくられた」?
福沢諭吉が生涯のほとんどで大阪弁を話していた、あるいは慶應義塾を創立した時に大阪弁を話していたのなら「ざっくり言うと、慶応大学は、大阪弁でつくられた大学なのだ」との説明でよいだろう。だが、門井氏の説明ではよく分からない。「中津ではずっと大阪弁で通したのか」「適塾時代は大阪弁だったのか」「東京(江戸)でも大阪弁だったのか」といった疑問が残る。
九州大学伊都キャンパス(福岡市西区) ※写真と本文は無関係です |
「福澤研究センター 都倉武之が語る 福澤展のツボ~方言と福澤諭吉」という記事によると「福澤は再び大阪に出て適塾に学びます。この頃福澤がどんな言葉を遣っていたのかは、よくわかりません」となっている。江戸・東京での言葉については以下の記述がある。
「福澤の後半生はもっぱら江戸・東京生活です。自然東京の言葉になじんだ福澤は、大工さんなどに親しみ、かなりきつい『べらんめえ』でしゃべることもあったと伝えられています。そのあげく、口癖は『途方もねえ』だったとか」
この説明が事実ならば「ざっくり言うと、慶応大学は、大阪弁でつくられた大学なのだ」と言うには程遠い。とりあえず「慶応大学は、大阪弁でつくられた大学」だとは思わない方が無難だ。
※今回取り上げた記事「プロムナード~慶応大学は大阪弁で」
http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20170428&ng=DGKKZO15862730Y7A420C1NZ1P00
※記事の評価はD(問題あり)。門井慶喜氏への評価も暫定でDとする。
※今回参考にした資料「福澤研究センター 都倉武之が語る 福澤展のツボ~方言と福澤諭吉」
http://keio150.jp/fukuzawa2009/blog_t/2009/05/post-f58c.html
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