【日経の記事】
スターバックスコーヒー太宰府天満宮表参道店(福岡県太宰府市) ※写真と本文は無関係です |
われわれは「災後」のチャンスを逃したのである。だが悔やんでばかりいてもはじまらない。5年の時の流れの中で見えてきたものがあるのもまた事実だ。2つあるように思う。
ひとつは国力の回復が必要であるという考え方だ。経済力、政治力、技術力といったハードパワー。文化、情報発信のソフトパワー。その中身のあり方にはいろんな議論があっても、もういちどパワーを取り戻さないことには、この国に明日はないという認識である。
もうひとつはネット社会で「つなぐ」ことの大切さだ。人がつながる。企業がつながる。それは国内だけでなく海外までおよんで、グローバル社会に対応していく。共助社会によって新たなビジネスチャンスも生まれてくる。
これが日本社会の「災後コンセンサス(合意)」といっていい。ここから災後の向こうを切り拓(ひら)いていくしかない。
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「国力の回復が必要」という国民的合意はあるのだろうか。例えば2011年10月に「成熟ニッポン、もう経済成長はいらない~それでも豊かになれる新しい生き方」(著者=浜 矩子氏・ 橘木 俊詔氏)という本が朝日新書から出ている。これに限らず、無理して経済成長を追求する必要はないとの考え方はかなり広がっている。個人的にも、経済成長率なんてゼロ近辺で十分だと思う。
芹川論説委員長が成長志向だからと言って否定はしない。ただ、「国力の回復が必要」というのが「日本社会の災後コンセンサス」と言われると同意できないし、例えば「経済成長を加速させてGDPで中国を再び上回りましょう」などと呼びかけられても、賛成する気にはなれない。
「もういちどパワーを取り戻さないことには、この国に明日はないという認識」を国民が共有していると考えているのならば、芹川論説委員長は世の中を知らなさすぎる。本屋を少しのぞけば「日本はこんなに凄いんだ」と訴える本がいくらでも見つかる。テレビ番組も同様だ。良い傾向とは思わないが、「もういちどパワーを取り戻さないことには、この国に明日はない」との社会的合意が得られているとは言い難い。
物事に対しては基本的に様々な意見がある。だから「社会的合意がある」といった解説は慎重にすべきなのに、芹川論説委員長にはそれができていない。
結論部分も引っかかった。
【日経の記事】
それにはほのかでもいいから未来が見えることだ。明日が明るい日だと思えれば人は前に進む。
「……/明日/何もかもを失くしても/明日/チューリップは 泥だらけの緑の葉を膨らませ/明日/赤黄白と いっせいに蕾(つぼみ)を開く/……」
詩人の佐々木幹郎氏が大震災後、元気になっていく世界を、との思いを込めてうたった「明日(あした)」と題する詩の一節だ。
もはや戦後でもなく、災後でもない社会へ。2020年の東京五輪のその先まで、とくに若い人たちが明日を信じられる日本にしていくこと。あれから5年。われわれに突きつけられた課題だ。
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最後の方で情緒的なぼんやりした話になっているが、これは良しとしよう。ただ、「もはや戦後でもなく、災後でもない社会へ」という呼びかけは引っかかる。「戦後」を終わらせて「災後」を始めなければならないのに、「災後国家」を作り上げられなかったという問題意識が芹川論説委員長にはあったはずだ。ならば、「これからでも遅くない。みんなで『災後国家』を築いていこう」といった展開になるのが自然だ。
しかし、なぜか「災後国家」は飛ばして次の段階を目指すらしい。それに「戦後でもなく、災後でもない社会」がどんな社会なのかの手掛かりもほとんどない。強いて挙げれば「若い人たちが明日を信じられる」社会なのだろう。だが、これは「災後」の枠組みの中でも可能なはずだ。それとも、芹川論説委員長が求めていた「災後国家」では、若者が明日を信じることはできなかったのだろうか。
※記事の評価はD(問題あり)。芹川洋一論説委員長への評価はE(大いに問題あり)を据え置く。芹川論説委員長への評価については「日経 芹川洋一論説委員長 『言論の自由』を尊重?」を参照してほしい。
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