宮城県慶長使節船ミュージアム (サン・ファン館)※写真と本文は無関係です |
今回の記事では「余命がわかる時代が近づく」と訴え「すでに技術はある」と言い切っている。本当にそうか考えてみたい。
【日経の記事】
「次の人生を歩みましょうか」。医師は重い病を抱えた患者の枕元で、穏やかな口調で語った。手元のタブレット型端末で呼び出した電子カルテ。「1カ月後の生存確率は33%」。コンピューターがはじいた余命が記されていた。「次の人生は、もう治療はいらない」。患者は仕事を部下へ引き継ぎ、娘は病棟でささやかな結婚式を挙げた……。
遠い未来の話ではない。緩和ケアの専門家である筑波大学の浜野淳講師は「自らの最期を知り、残り少ない人生を充実させたいと思う患者の望みにこたえたい」と話す。すでに技術はある。進行がんの患者約1000人のデータを調べ、血液成分や心拍数など検査値のパターンが1週間~3カ月先の生存確率を暗示していることに気づいた。研究を積み重ね、人生の締めくくりを迎える時期を予測する方程式を導いた。日々の検査結果をコンピューターに入力するだけで、健在である確率を1週間先ならば約8割の精度で判定する。
◎「約8割の精度」とは?
まず言葉の使い方に問題がある。
「健在である確率を1週間先ならば約8割の精度で判定する」と書いているが、「生存確率は33%」などと予測するのならば、あくまで「生存確率」だ。「健在」とは「元気で無事に暮らしていること」(デジタル大辞泉)を言う。「重い病を抱えた患者」が「1週間先」に「健在である確率」はほぼゼロだ。そんな予測ならば誰でもできる。
本題の「約8割の精度」についてはどうか。例えば「1週間先の生存確率は33%」と「判定」された人が2日後に死亡したら「約8割」に入るのか。10日後に死亡したら外れなのか。その基準は「1週間先の生存確率は49%」としても同じなのか。何を以って当たり外れを決めているのかが、よく分からない。
そもそも「1週間先の生存確率は33%」という情報が正しいとしても、これでは「余命」は分からない。この情報は「明日死ぬ可能性」も「3年後に生きている可能性」も否定していない。参考にはなっても「余命がわかる」には程遠い。
「余命がわかる」と言う場合、「余命3カ月」などと断言してほしい。それも、あまり幅が広すぎれば意味がない。例えば、90歳の人に関して「余命0~20年」と「判定」できて、99%の確率で当たるとしても「余命がわかる時代」になったとは思えない。
「自分の余命 知りたいですか?」と打ち出したのに、結局大した話は出てこない。なのに記事では強引に「ディスラプション(創造的破壊)」とつなげてしまう。そこも見ておこう。
【日経の記事】
将来について知りたいとの願いは、古今東西に共通する。古代ギリシャでは、疫病の流行や戦況を占ってもらおうと多くの人が神殿を訪れ、巫女(みこ)が伝える神のお告げに耳を傾けた。こうした予言の多くは「運命」や「宿命」と受け止められた。その時をどう迎えるかが大切で、あらがうものではなかった。
ところが技術革新がディスラプション(創造的破壊)を引き起こす。未来がわかりさえすれば、運命は変えられる。
◎「未来がわかりさえすれば、運命は変えられる」?
重い病気を患った時に「1カ月後の生存確率は33%」と「判定」できるようになると「ディスラプション(創造的破壊)」が起きるだろうか。個人的には、そのレベルの情報ならばほとんど役に立たないと感じる。
さらに言えば「未来がわかりさえすれば、運命は変えられる」という説明には矛盾がある。「運命は変えられる」のならば「未来」は分かっていないはずだ。
「1週間後に死亡する」という「未来」が分かっている時に、その「運命」はどうやって変えればいいのだろうか。
最後に記事の終盤を見ていく。「最初の話は何だったの?」と言いたくなるような展開が待っている。
【日経の記事】
「あとどれくらい生きられるのか」。筑波大の浜野講師は生存確率の数字をはじいた後、頭を抱えてしまった。「患者や家族に正直に知らせるべきか。伝えられて幸せになれるのか」。研究成果は出たが、新たな苦しみが始まった。悩んだ末に至った結論は「生存確率そのものは患者や家族に告げるべきではない。最期まで充実した時を過ごしてもらうために自分たちはやれることをやる」。先を見通せる時代だからこそ、私たちは決して生き急がず、いまをいかに大切に生きていけるかが問われている。
◎「患者の望みにこたえたい」はどこへ?
「筑波大の浜野講師」は記事の最初の方で「自らの最期を知り、残り少ない人生を充実させたいと思う患者の望みにこたえたい」と話している。なのに最終的には「生存確率そのものは患者や家族に告げるべきではない」となってしまう。記者が取材している途中で別人になってしまったかのようだ。
「最期まで充実した時を過ごしてもらうために自分たちはやれることをやる」という発言も謎だ。「やれること」が「生存確率」の算出ではなかったのか。
そして記事の結論は「先を見通せる時代だからこそ、私たちは決して生き急がず、いまをいかに大切に生きていけるかが問われている」という漠然としたものになってしまう。
「いまをいかに大切に生きていけるかが問われている」のは古今東西変わらないと思える。さらに言えば、「生き急」ぐのがなぜダメかも理解に苦しむ。生き急いだからと言って「いま」を「大切に」していない訳ではない。
例えば「20代のうちに100カ国を旅する」という目標を立てて世界を飛び回っている人は「生き急いでいる」かもしれないが、「いま」を「大切に」しているとの見方もできる。
結局、記事の筋立てに無理があるので、結論も強引にならざるを得ないのだろう。
※今回取り上げた記事「Disruption断絶の先に~第6部 未来の読み方(1) 自分の余命 知りたいですか?」
https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20190904&ng=DGKKZO49151270Z20C19A8TL1000
※記事の評価はD(問題あり)。猪俣里美記者と加藤宏志記者への評価も暫定でDとする。
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