風の見える丘公園(佐賀県唐津市) ※写真と本文は無関係です |
今回のテーマは「ルッキズム(身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱い)」。これに関して「笑いを求めて毒を承知で本を買って読むのだって自由だ。しかし、無料で誰でも見られるテレビドラマで人をブス呼ばわりして、そのブスに対して上から生き方をススメてよいはずがない」と小田嶋氏は主張する。つまり「本ならOKだが、テレビドラマではNG」となる。この線引きに説得力があるだろうか。
記事の中身を順に見ながら考えてみたい。
【日経ビジネスの記事】
1月から日本テレビ系で放送される予定だった連続ドラマ「ちょうどいいブスのススメ」に関して、先日、制作局である読売テレビが記者会見を開いた。主旨は、ドラマのタイトルを「人生が楽しくなる幸せの法則」に改めるというものだ。理由は、「視聴者の方々に、ドラマの内容を理解していただくため」だという。まったく意味不明の弁解だ。
彼らは、本来なら「女性の人格を否定する不適切なタイトルだった」と、率直に自分たちの誤りを認め、関係各方面に謝罪をしたうえで、タイトルを変更するべきだった。
◎「女性の人格を否定」?
まず「ちょうどいいブスのススメ」を「女性の人格を否定する不適切なタイトル」と認識する感覚が分からない。容姿は「人格」と関係ない気もするが、とりあえず人格の一部だとしよう。だとしても「ちょうどいいブスのススメ」に「人格を否定」している感じはない。
自分は男性だが「ちょうどいいブオトコのススメ」というタイトルだったとしても「人格を否定」されたとは全く思わない。例えば「すべての女性はブスである」「ブスには生きる資格がない」といったタイトルならば、まだ分かる。
「ちょうどいいブスのススメ」では誰かを「ブス」と特定している訳ではないし、「ブス」を否定もしていない(むしろ肯定している)。なのに「女性の人格を否定する不適切なタイトル」と断定する方が「不適切」だ。
記事の続きを見ていこう。
【日経ビジネスの記事】
なぜそうしなかったのだろうか。
おそらく、誤りを認めてしまったらタイトル変更だけでは済まないからだ。
というのも、批判の主たるポイントであるルッキズム(身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱い)の問題は、タイトルだけに起因する話ではないからだ。
ドラマの原作として発売されている同名のエッセイ(山﨑ケイ著)を読めばわかるように、ルッキズムは原作の主題のど真ん中に居座っている。
「ちょうどいいブスとは、酔ったらイケる女性のこと」と、前書きで宣言し、本文内で何度も繰り返している通り、本書は、「自己評価70点で実際には50点の女」たちに「45点の自己申告」と「酔わせればオトせる」女としてのプレゼンを推奨している本だ。
もっとも、著者たる山﨑ケイ氏が、自身をブスであると規定しているその自己規定自体に問題があるわけではない。また、彼女がそのセルフイメージに沿った生き方を通じて成功をおさめた自覚を持っていることもまた、何ら責められるべき認識ではない。
ただ、だからといって、「ブス」としての自覚や「ブス」ならではの処世を他人に勧めるには、相当の慎重さと覚悟が必要だと思う。「ブス」は極めて微妙な概念で、ギリギリ自虐としては使用可能でも、自覚して活用することを他人に「ススメ」たり教えたりしてよい言葉ではないからだ。
◎だったら本もダメなような…
今回の記事が苦しいのは「著者たる山﨑ケイ氏」をギリギリでセーフな場所に置いて、「(テレビドラマの)企画を進めたプロデューサー」を厳しく批判している点だ。「ルッキズム」が許されないもので「ルッキズムは原作の主題のど真ん中に居座っている」のならば、「タイトルも中身もダメ。こんな本を書く著者は激しく批判されてしかるべき」となるのが自然だ。しかし、小田嶋氏はなぜか「著者たる山﨑ケイ氏」には甘い。
九重"夢"大吊橋(大分県九重町) ※写真と本文は無関係です |
さらに言えば「『ブス』は極めて微妙な概念で、ギリギリ自虐としては使用可能でも、自覚して活用することを他人に『ススメ』たり教えたりしてよい言葉ではない」との解説にも同意できない。
テレビのバラエティー番組で女性芸人が「ブス」いじりされるのは珍しくない。この場合、特定の女性を「ブス」として扱っている。
「ブス」が「ギリギリ自虐としては使用可能」な「言葉」ならば、女性芸人に対する「ブス」いじりは基本的に放送できないし、放送されれば激しい批判を招くはずだ。しかし現状ではそうなっていない。
「ブス」いじりを全国ネットで放送して大きな問題になっていないのに、「ブス」を「ギリギリ自虐としては使用可能」な「言葉」と捉えるのは無理がある。小田嶋氏は「自分が思っていること」と「社会の共通認識」を同一視し過ぎているのではないか。
さらに記事の続きを見ていく。
【日経ビジネスの記事】
お笑い芸人というのは、山﨑氏もそうであるように、私がいまここで書き並べているような、ポリティカリーにコレクトな「建前」を揶揄する立場の人たちだ。実際、笑いは、「建前」と「本音」が相克する場所に摩擦として生じる、ある種の熱力学的な運動でもある。
その意味では、彼ら彼女らが「ブス」をネタにしたがることに理由がないわけではないのだろう。しかし、世界は少しずつではあるが前に進んでいる。いつも本音をぶっちゃけてさえいれば笑いが取れるというものではないし、本音でさえあればすべての不謹慎や暴力が免罪されるものでもない。
◎論理展開が苦しいような…
「いつも本音をぶっちゃけてさえいれば笑いが取れるというものではないし、本音でさえあればすべての不謹慎や暴力が免罪されるものでもない」のは、その通りだ。しかし「ゆえに「『ブス』をネタに」することが「免罪され」ないとは言い切れない。
「世界は少しずつではあるが前に進んでいる」としても、「『ブス』をネタに」するのはご法度と言えるレベルまで「前に進んでいる」とは言い難い。それはバラエティー番組の現状を見れば分かるはずだ。
そもそも「『ブス』をネタに」することが「本音をぶっちゃけ」る行為なのかも微妙だ。「本音ではブスとは思っていないが、流れ的にそうした方が面白いから」と考えて発言している芸人がいても不思議ではない。
最後に結論部分を見ていく。
【日経ビジネスの記事】
女芸人が「女を捨て」たり「女を売っ」たりすることそのものは、「芸」の範囲の話なのかもしれない。笑いを求めて毒を承知で本を買って読むのだって自由だ。しかし、無料で誰でも見られるテレビドラマで人をブス呼ばわりして、そのブスに対して上から生き方をススメてよいはずがない。しかも、その「ちょうどいいブス」の生き方が、セックスを安売りする体当たり戦術だというのではシャレにさえなりゃしない。だが、そんな芸人世界のホモ・ソーシャル設定に、地上波のテレビ局がそのまま乗っかったわけだ。
企画を進めたプロデューサーは「本物」だと思う。つまり「ちょうどいいバカ」でさえないということだが。
◎有料コンテンツならばOK?
「笑いを求めて毒を承知で本を買って読むのだって自由」なのに「無料で誰でも見られるテレビドラマで人をブス呼ばわりして、そのブスに対して上から生き方をススメてよいはずがない」と小田嶋氏は言う。
「本はOKでテレビドラマはNG」の根拠は「テレビドラマは無料で観られるから」だと思える。だとしたら有料チャンネルのドラマならばOKなのか。
「『ブス』は極めて微妙な概念で、ギリギリ自虐としては使用可能でも、自覚して活用することを他人に『ススメ』たり教えたりしてよい言葉ではない」としたら、出版社が「ちょうどいいブスのススメ」という本を出して全国の書店で販売するのは避けるべきだ。
「女性の人格を否定する」ことは「有料で販売している本の中でやるのならば自由。でも無料で見られるものでやってはダメ」と小田嶋氏は考えているのか。常識的に言えば「無料であろうと有料であろうと好ましくない」と思える。
小田嶋氏も執筆している日経ビジネスオンラインで考えれば分かるはずだ。「無料コンテンツでは『女性の人格を否定』してはダメだが、有料コンテンツならば許される」との主張に小田嶋氏は同意できるだろうか。
※今回取り上げた記事「小田嶋隆の『pie in the sky』~ 絵に描いた餅べーション:ちょうどよくないと笑えない」
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/NBD/15/257045/010800197/?ST=pc
※記事の評価はD(問題あり)。小田嶋隆氏への評価はB(優れている)からC(平均的)に引き下げる。小田嶋氏に関しては以下の投稿も参照してほしい。
どうした小田嶋隆氏? 日経ビジネス「盛るのは土くらいに」
http://kagehidehiko.blogspot.com/2016/09/blog-post_25.html
山口敬之氏の問題「テレビ各局がほぼ黙殺」は言い過ぎ
http://kagehidehiko.blogspot.com/2017/06/blog-post_10.html
小田嶋隆氏の「大手商業メディア」批判に感じる矛盾
http://kagehidehiko.blogspot.com/2018/02/blog-post_12.html
杉田議員LGBT問題で「生産性」を誤解した小田嶋隆氏
https://kagehidehiko.blogspot.com/2018/07/lgbt.html
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