上人ヶ浜公園(大分県別府市) ※写真と本文は無関係です |
「医療・健康面の記事やコラムに関するご意見、情報を募集しています。ファクス(03・6256・2770)か電子メール(iryou@nex.nikkei.co.jp)でお寄せください」との要望に応えて、以下の内容で意見を送ってみた。
【日経に送ったメール】
日本経済新聞社 石原潤様 松浦奈美様
17日朝刊医療・健康面の「『死ぬ権利』はある? 戸惑う現場~終末期患者、飲食拒否のケース 意思の尊重 国内議論進まず」 という記事を興味深く読みました。「ご意見、情報を募集しています」と末尾に出ていたので、私見を述べてみます。
まず「末期の膵臓(すいぞう)がんを患い、日々苦痛に見舞われていた神戸市の70代男性」が「患者が自らの意思で飲食を拒み、死を早めようとする行為」である「VSED」を「実行」したのか疑問が残りました。記事では以下のように説明しています。
<記事の引用>
男性は自力で飲み食いができる状態だったが、長くとも2カ月程度で亡くなるとみられていた。「先生が死なせてくれないなら、飲み食いをやめる。薬で眠らせてほしい」。反対する妻や新城医師の思いとは裏腹に、男性の意思は強く、一切の治療も拒否した。
そのため新城医師は看護師などと相談を重ね、最終的に睡眠薬を微調整して本人が望むように少しずつ眠らせることを決断。男性は1週間ほどで亡くなった。
「医師としてどう対応すればよかったのか」。悩み続けた新城医師は男性が実行したものが「VSED(Voluntarily Stopping Eating and Drinking)」であると知ったのはそれから数年後のことだった。
--引用はここまでです。
「飲み食いをやめる」との宣言してから死亡まで「1週間ほど」です。しかも「新城医師は看護師などと相談を重ね、最終的に睡眠薬を微調整して本人が望むように少しずつ眠らせることを決断」しています。「薬で眠らせてほしい」という患者の希望は通ったのですから、「VSED」には至らなかったのではと感じました。記事でも「飲み食い」を断った様子を描いていません。しかし結局は「男性が実行したもの=VSED」となっています。ここは解釈に迷いました。
もう1つの疑問は、記事の最後に出てくる「新城医師」のコメントに関してです。
<記事の引用>
新城医師は「終末期の患者は『死にたい』と『生きたい』という相反する感情を同時に持ち合わせている。だが実際に死にたいと考えている人は少ないのでは」とみる。そのうえで「まずVSEDを認める国の人権感覚を学び、こうした意見にどう向き合い、応えていけるかということを考えなくてはいけない」と強調している。
--引用は以上です。
「まずVSEDを認める国の人権感覚を学び、こうした意見にどう向き合い、応えていけるかということを考えなくてはいけない」とのコメントには「日本はVSEDを認めていない」との前提を感じます。しかし、日本は「VSEDを認める国」と言える気がします。
認められていないのならば、飲食拒否の患者に栄養摂取を強制できるはずです。しかし、日本の医療現場では患者の自己決定権を重視し、望まない治療を拒否できるとする考え方が主流です。判例も同じ流れです。だとすれば日本は「VSEDを認める国」ではありませんか。
記事では「『死ぬ権利』はあるのか」と問いかけていますが、答えは「ある」と言うほかありません。「VSED」を強制的にやめさせる法的根拠はないはずです。飲食拒否による自殺を企図しても処罰の対象にはなりません。なのに「死ぬ権利」がないと考えるのは無理があります。
問いかけるならば「人の手を借りて死ぬ権利はあるのか」が適切でしょうか。しかし、これは「VSED」と直接には関係しません。
今回の記事では「VSEDを認める」かどうかと、「VSED」を企図する患者に「安楽死」を認めるかどうかを区別せずに論じている感じがあります。
意見は以上です。今後の記事執筆の参考にしていただければ幸いです。
◇ ◇ ◇
上記のメールに対して「日経新聞社会部 医療班」から「ご意見とご感想ありがとうございました。今後の記事の参考にさせていただきます」との返信があった。
※今回取り上げた記事「『死ぬ権利』はある? 戸惑う現場~終末期患者、飲食拒否のケース 意思の尊重 国内議論進まず」
https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20181217&ng=DGKKZO38943630U8A211C1TCC000
※記事の評価はC(平均的)。石原潤記者と松浦奈美記者への評価も暫定でCとする。
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